ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「純」をめぐる第2段

2008-11-12 14:15:02 | ときのまにまに
現在の焼酎ブームを切り開いたのは文句なしに宝酒造の「純」である。あのクリスタルのような透明感は独特の四角い瓶によって強調され、冷凍庫に入れても凍らないという神秘性が「化学的なインテリジェンスとなって、日本の知的階層にも受け入れられた。というようなことは、ともかくとして、「純」は「純粋」に通じ、日本人の感性とマッチした。
「たまには『純』もいかがですか」というメッセージは、たまには、「ひねくり回さないで、純粋に聖書の言葉を聞いたらどうでしょうか」という忠告にも通じる。そうです。「聞く」という行為は純粋でなければなりません。斜に構えて、疑り深い姿勢は「聞く」ということの反対の姿勢です。「あの人は人の話しをよく聞く」という言葉には、素直で、従順な姿勢が褒め称えられています。
ところで、あの「純」、実はブレンド酒なのです。米でもなく、麦でもなく、芋でもなく、黒糖でもなく、トウモロコシを主として、それに18種類の雑穀を混ぜ合わせた混合酒なのです。「純」のいう名前に惑わされて、本当に純なのだと思い込み、まさか19種類の雑穀の混ぜものだとは、気がつきませんでした。いろんな雑多なものを混ぜ合わせた「どろどろのもの」が人間の努力と化学技術に熟成という時間とによって、あのクリスタル(結晶)のような「純」が生まれ、わたしたちの口に届いているのです。いや、むしろ徹底的な混ぜものだからこそ、「何ものでもない」という「純粋さ」が生まれたのだ、とも言えます。いろんな、雑多なものが、完全に混じり合って「純」が生まれたとも言えます。
目の前に「純」を置き、「お前もそうか」、と呼びかけたくなります。実は、わたしの目の前にあるのは「純」ではなく、聖書です。聖書は純粋に「神の言葉」だと教えられてきました。しかし、現実に目の前に置かれた聖書の言葉には、古代社会のいろいろな文化や宗教が溶け込まれ、その時代時代の「解釈」がつきまとい、複雑怪奇な、理解困難な文書として、わたしたちの前に置かれています。先ず、これがここにあるということが驚きです。ショックです。しかし、この書をゆっくりと、静かに、時間をかけて読むとき、各時代の信徒たちが聞いた「純粋な」神の言葉が心に響いてきます。<ペトロの手紙(1)1:25~2:2>

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