ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

発題「京都のキリスト教」

2004-03-23 14:54:10 | 雑文
発題 「京都のキリスト教」(2004.3.23、関西セミナーハウス)

キリスト教という宗教は、その成立の当初から、地域性(ローカリズム)つまり異教文化を自己の中に吸収することによって普遍性あるいは世界性(グローバリゼーション)というものを目指してきた。シンクレティズムという概念は、正統派キリスト教が成立すると、マイナスイメージで理解されてきたが、それ以前もそれ以後も、現実のキリスト教はキリスト教が進出してきた各地の既存の宗教・文化を取り込み、その地域に確立したのである。当然、現実のキリスト教会の在り様と正統主義的な自己理解との間にギャップが生じ、キリスト教の歴史そのものが面白くなってきた。
京都という地盤の中でこのことを考えることは決して無益ではないと思うが、それにはかなり複雑な歴史的情況というものを社会学的、神学的に検討する必要がある。
そこで、本日わたしはそのための参考になる二つのエピソードを紹介したい。
「京都のキリスト教」というテーマを考える際、とくにわたしたちにとって関心のあるところを拾い上げますと、二つのテーマがあるように思います。
① なぜ、新島襄は京都で同志社を始めたのか。
なぜ、新島襄は同志社を京都で始めたのか。このことについては、同志社の関係者がすでに明らかにしていることと思う。当時の、日本政府、京都の行政責任者たちと新島先生との関わり、「天皇を東京に取られた京都」という都(みやこ)の将来についての展望、恐らくいろいろな要素が錯綜した結果であろう。しかし、そのことをどれほど正確に説明したとしても、この設問に十分に答えたことにはならない。ただ、こうは言えるのではないか。京都だからそのことは可能であった。京都という風土にはキリスト教主義の私立学校の設立を認める何かがあった。
もう一つのテーマは
② なぜ、京都帝国大学文学部に「基督教学」が設置されたのか。
これも考えてみると不思議なことである。京都帝国大学の年表を見ると、「基督教学科」は、「佛教学科」よりも前に設置されている。西田幾多郎先生が宗教学講座から哲学科に移られ、その後を早稲田大学から波多野精一先生が宗教学第1講座の教授として迎えられたのがに大正6年(1917)で、波多野先生の尽力により、宗教学第2講座(基督教学)が大正12年(1923)年に設置された。第3講座として佛教学が設置されたのはそれよりさらに3年遅れて大正15年(1925)のことである。勿論、佛教学の設置が遅れたのには、宗教学といえば「佛教」の研究であるという理解が一般的であったと思われるの、それだけで基督教学の優位性を説明することはできないが、ともかく外国の宗教と思われていたキリスト教を国立大学の正規の学科として設置するということにはかなり勇気と見識とが必要であったと思う。しかし、これも、ある意味では一種の力関係によるもので、論理的な結論であるとは思えない。しかし、ただ、こうは言えるのではないか。京都だからできた。はたして、東京帝国大学に「基督教学科」は設置できたであろうか。
結論として、「京都のキリスト教」という場合、何かポジティブにその理由や特徴を語ることはできないが、京都にはキリスト教を「一人前のもの」として受け入れる土壌がある、ということが言えると思う。この辺のことを、二つのエピソードを通して皆さんに説明し、協議の材料としていただきたいと思う。

1.「キリスト教の洗礼を受けた国学者松山高吉」
「松山高吉(まつやま たかよし)という名前を聞いて、それがどういう人物であるのかということについて、ある程度の認識を持っている人は余り多くはいないと思う。しかし、かの格調の高い「文語訳聖書(旧約・新約)の翻訳作業の中心人物であり、その下訳をほとんどひとりで仕上げた人物というだけで、彼がいかにわたしたち日本人キリスト者にとって無視できない存在であるかということは分っていただけると思う。日本語聖書の翻訳作業において「東の奥野昌綱、西の松山高吉」と呼ばれた人物である。奥野は1823年生まれで、1910年に亡くなっており、松山は奥野より23歳若い1846年生まれで1935年に亡くなっている。ちょうど、翻訳作業の頃は(1874-1885)奥野が50歳頃、松山が25歳頃で、松山はそのために神戸から横浜に家族同伴で転居をしており、作業に専心していたようである。
わたしが初めて松山高吉という人物について知ったのは、大学(神学部大学院)を卒業して間もない頃、溝口靖夫先生の編集による「松山高吉」(1969年12月発行)という本を書店で見つけたときのことである。その時には、「松山高吉」という人物については関心はなく、ただこの本が神戸女学院の学長である溝口靖夫先生が編集されたということに強い興味を抱いたからである。実は、溝口先生は神戸女学院の教授で、しかも図書館の館長という肩書きで「世界宣教論」という特殊講義のために関西学院大学神学部に1年間だけであったが出講された。その講義の内容は非常に興味深く、印象的でした。その後、溝口先生は神戸女学院の学長になられ、出講は1年だけで終わりましたが、その時にわたしは大学の図書館長という職責は学長の次に偉いのだという印象を持ちました。
そういう経験があって、溝口靖夫という名前はわたしの記憶に強く残りました。だから、書店でこの名前を見たときに、直ちにそれを手に入れたのである。それ以後、溝口靖夫という名前と松山高吉という名前とはセットになってわたしの記憶の奥に納められました。
ところが、それから約20年ほどたって、わたしは京都の聖アグネス教会の牧師となり、もう一度この名前に出会ったのである。それは松山高吉先生の家族の方々がこの教会の信徒だったからであある。
また、最近、日本聖公会の歴史研究会の「歴史研究」第11号(2001年9月発行)に、「聖歌集と松山高吉」(塩谷栄二)という論文が発表された。その主旨は、なぜ松山高吉は聖公会の歴史の中で埋もれてしまったのかということで、他教派から聖公会に移った人物に対する聖公会の狭さを批判する内容で、わたしの個人的な経験との関係で非常に興味あるものでした。
松山について、まず初めに紹介したいエピソードは同志社の創立者新島との関係で、新島先生を「新島君」と親しく呼んでいたのは、彼だけであろう、と言われている。
新島と松山とは、京都に同志社を設立するについて、幾度か、ある時は夜を徹して論じあったらしく、「東京は政治の都、大阪は商業の市、京都こそ教育の都」として二人の意見は一致したと言われている。(佐々木二郎主教の言葉)
松山高吉は国学の士として研鑽し、外国の宗教であるキリスト教が日本人にとって害ある者と考え、キリスト教の本質を調査すべく、偽名を使って神戸のグリーン宣教師(アメリカンボード)に接近したが、逆にわずか2年足らずの後、キリスト教へ転向した人物である。キリスト教徒になってからの松山は彼の専門分野である国学を駆使して聖書の翻訳に並々ならない貢献をした。彼は組合教会においては、神戸教会、平安教会、洛陽教会等組合系の拠点教会において牧会をしたが、明治30年突然、聖公会に転籍し、周囲を驚かせたらしい。しかし、生涯同志社の社員であることを貫いた。聖公会では生涯「一信徒」として信仰をまっとうした。聖歌の作詞者でもあり、讃美歌59番(聖歌163、曲は異なる)、讃美歌415番(聖歌506)などが有名である。
さて、わたしがこの協議会で松山高吉を紹介したいと思った理由は、彼において、日本文化(=神道)とキリスト教とがどのように出会っているのか、ということである。そのことについて、彼自身が「神道起源」(明治27年(1894)5月同志社文学雑誌)という論文で論じている。時間の制約もあり、中心点だけを紹介する。以下の資料は原文そのままではなく、原文の格調を壊さない程度に書き改めている。
「仏法の結果かくのごとし。されど、無名無言の固有宗教は隠然として力あるが故に儒仏おのおのその本質をほしいままの顕すこと能わず、あるいは顕れ、あるいは隠れ、ついには幾分かその質を変え、その形を変じ、日本に化して社会に立ちしかば、甚だしく禍害を長くは逞しくせざりき。さはいえ、これが為に日本固有宗教の害を受けしこと少なからず。その真を埋没して誤謬の神道を多く世に出でししも、旨として仏儒によれることは前に言える神道創始の条にて明らかならん。日本にある諸宗教の情況かくのごとし。(中略)日本は宗教の荒れ地といわまし。もし、この荒れ地を救うべき真の宗教なくば、日本数千百万の精霊をいかにせん。幸いに、基督教ありてその欠乏を満たさんとす。日本固有の宗教は満面笑みを含んで歓迎すべし。今日、基督教を憎み、基督教を敵とするものは誤謬の神道、奇遇の仏儒なり。基督教を伝える者の最も注意を要するは、これらの宗教と日本固有宗教とを混同せざらんことなり。(中略)
願わくは、国と権と栄とは唯一なる全能者に帰して、日本は限りなくその恩寵に浴せんことを。
明治26年7月3日 汗を拭いつつ記し畢りぬ。

この松山の考えが当時の日本人キリスト者たちにどれほど受け入れられたかということはかなり怪しい。おそらく、何も分からなかったのではないだろうか。しかし、賢明な諸兄姉には、これ以上の解説は不要だと思う。ただ、蛇足になるかも知れないが一言だけこれに付け加えたい。最近、宮田光雄氏が「権威と服従──近代日本におけるロマ書13章──」(新教出版社)を出された。時機にかなった大変な労作である。この書の中で「明治初年のロマ書13章」(45頁)という箇所で、日本におけるほとんど最初のロマ書13章に関する論調として「七一雑報」(1887年)に連載された「説教」について触れている。「説教者の名前は不明であるが」と断った上で、「神戸教会一員」の主張を紹介している。わたしは、独断と偏見で、この「神戸教会一員」とは松山高吉のことであろうと推測する。ちょうどその頃、松山は神戸教会の牧師でしあった。

2. 日本的キリスト教の探求 京都学派とキリスト教
今、本屋に行って驚くことは「京都学派」関係の書籍が次々と出版され、専用の書架まで置かれていることである。まさに、「京都学派ブーム」と言えるのではないか。その中でも、大橋良介氏の「京都学派と日本海軍──新史料「大島メモ」をめぐって──」(PHP新書)と同じ著者による「京都学派の思想──種々の像と思想のポテンシャル」(人文書院)は非常に興味深い。
わたしが今晩、松村克己を取り上げるのは、そのような京都学派ブームに悪のりしているのではなく、京都とキリスト教とを考える場合に、ぜひご紹介した重要なエピソードがあるからである。(松村克己についての紹介は省略する。)
それは今はほとんど忘れられているが、実は松村克己を中心に「京都神学研究所」なるものが設立され(1944)、その連絡事務所が京都帝国大学文学部宗教学松村助教授研究室内に置かれた。設立の仕掛け人は、当時京都の鴨東教会の牧師で中村信一牧師で、同志社の濱田輿助教授、川島織物の若き経営者川島甚平氏など、教派を越えて京都市内の諸教会の牧師や信徒など、かなりの人々が協力をしていたようであある。
松村の日記、1944年(S19)4月3日)によると、この日中村信一牧師(鴨東教会)と一緒に有賀鉄太郎氏と大塚節治氏の居宅を訪問し、京都神学研究所の設立について了解を求めている。そして、翌日、鴨東教会において神学研究会の第1回例会が開催された。この時の発題は「福井君により精研の報告2の1により「上代詩歌における神の概念について」であった、とある。ここで「精研」と呼ばれているものが何であったのか、はっきりしないが、この発表について、松村は「実質的には大して得るところなし」と感想を記している。
つづいて、4月5日の日記によると、雑誌「エクレシア」(主筆松村)の原稿「殉教論」(恐らく(3))を書きかけているが、筆は余り進まなかった様子で、「原稿8枚」と記録されている。松村はこの日体調が余りよくなく、午後から家に帰って寝床に横たわって読書をする。読んだ本は黒崎幸吉氏の「武士道的基督教」で、読んでいるうちに燃えてきて、「批評文をものにした」と少し興奮気味である。これは「エクレシア」の5月号に掲載された。
この頃の松村は、エクレシアの主筆、月曜会の開催、京都神学研究所の三つが基督教内における主な活動であったようである。
さて、翌1945年6月に入るとアメリカ軍の空襲がかなりひどくなり、京都にも大分被害が出ている。(6月26日付の日記)
27日(水)の朝、いつもより少し早く起きて2時間ばかり原稿を書いている。当時の松村にとってこれは珍しいことであるが、その理由はその日の午前9時から始まる日本諸学振興委員会哲学会の発表の準備で、実は28日の午前の最後に発表する予定であったところ、発表者の都合により、1日早くなり、しかも午前の2番目に発表することになったという。このことから推測されることは、この哲学会において松村は主催者にかなり近い関係にあったと思われる。さて、発表原稿は完成しなかったようで、そのことについて松村は「フリーハンドでやって片づける。余りよい出来ではなかった」と記している。
さて、問題はその翌日、28日のことである。日記には次のように記されている。「大島(康正)君(後に「大島メモ」の記録者)の発表、よく準備され、まとまっている。午後から質疑応答、神戸女学院の溝口氏の質問にやや調子にのって答えた感あり、恥ずかしく思う」。この書き方から推測すると、溝口氏と松村とはかなり激しく議論したようである。
この日のことについて、かなり詳細に紹介する理由は、この哲学会の会場に松村に面会するために一人の婦人が来たからである。この婦人との面会がその後の松村に少なからず影響をもたらしたと思う。
一応、松村は真面目に面会し、話を聞く。松村は「あれでよかったのか」と多少気にしている。婦人は、ぜひ読んでほしいと2冊のノートを松村に手渡す。松村はそのノートが気になり、会場でパラパラと目を通す。どうも、この婦人は花柳界から救われた女性らしく、人妻となって10年ばかり結婚生活を送ったらしいが、現在は一人で生きているらしい。朝、昼、晩、靖国の英霊を祀っているとのこと。
松村は帰宅してすぐにこのノートを読みたいと思うが、あいにく文部省の日本諸学振興委員会哲学会の為に上洛した大内三郎氏が来訪し、日本の現状への愛と、宗教者の任務について、等々語り合う。夕食後、やっと解放され7時から夜中の1時までかかって、このノートを読む。その時の感想を松村は「涙なしには読めぬ」。「近頃になく、感銘感激して心うち震える」と記している。よっぽど、このノートには感銘したらしく、その翌々日同志社大学の濱田輿助氏に見せて意見を聞いている。そして、「自分と同意見、美しい魂、魂の置き場所は確かである。危険と言えばFanatismeへの方向、悪くすると巫女化することだ」と記している。
濱田氏に見せた後、30日付けで松村が大内三郎氏に話した内容のメモに残している。このメモは、当時の思想状況とキリスト教会の姿勢について松村の考えを理解するために非常に重要であると思う。
<松村メモ>
一昨28日の夜、文部省の日本諸学振興委員会哲学会の為に上洛した大内三郎君来訪。哲学会での自分の発表、日本神観の構造性とイスラエル神観との対比、大島君の「国家論」に関係して、日本における政治、倫理(特に公共的)の貧困について語り、いかにしてこれを救いうるかと問う。自分の考えを述べたが大筋以下のごとし。
天皇に対する無私なる帰一、忠誠ということは日本倫理のsine qua nonである。が、それはnegativな条件であって、positivには、かかる一般的なGesinnungの上に成立の個別的歴史的にPolitikがなければならぬ。このことは政治家においては特に顕著に痛感されるところである。国民の各個はここに自己の生死のみならず、忠誠そのものをも賭して具体的な決断に出る。場合によっては、不忠の賊と嘲られ、罵られる事もあり得る。維新の際における岩倉の2転、3転せるPolitikとこれに対する非難。彼の態度を思う。このpositivな国民としての生活の内容を規定してくる具体的な命令はどこから出るか。神の外にはない。が、その神はもはや恒に現人神ではない。比喩、勅語、詔書として示される場合は、特別な事柄、特別な場合に限る。その他の事柄、殊に日常の生に関しては直接にここにその源を仰ぐわけには行かぬ。そこに、憲法28条の現実の思想としての意義があると考える。
国民の各自はそれぞれの場所で、各自の良心と知性に限りを尽くしてその納得しうる道において、それぞれの信仰において、その仰ぐ神から、宗教という道によって具体的な生の内容規定を得る。それぞれの道においてなされる神社へ、まつりにおいて、神意は具体的に各人に啓示されてくる。まつりにおいて不定なる神の意味は特定、具体的なものとして限定されてくる。
ここにおいて、天皇のまつりに応える民のまつり、大御心に深い???天業を翼賛し奉る民の生活は可能になる。そこからPolitikは生まれる。神意を迫り戦いとるまつりのないところに政治・倫理の貧困がある。
しかも、まつりは恒に集団のそれを原型とし、それは恒に歴史形成的に集団形をを通して社会形成的に働く。地域的なまつり、隣組のそれ等がそれぞれの人の宗教に従って交代になされても、人は心に納得さえすれば反撥するものではない。キリスト教も亦教会での公の礼拝の外にprivateのまつりを教えるべきだ。家庭礼拝の指導がなされると共に、銘々にこれが工夫をしなくてはならぬ。朝の礼拝において聖書を読み、祈る黙想して神意を伺うことの中にその日の態度がただされると共に具体的な生活の段取りが神意として示され、神意に応えまつる決断として祈りの中に表現されて然るべきである。
千◯◯子なる人の手記を読まされて、荊棘の路を歩みつつ●●信仰において日本の妻、女としての生き方を具体的に捉えんと努力し且つ公事にこれを成し遂げている雄々しき姿に驚嘆と敬意とを関すること大なり。(●●判読不能)

このメモを整えたものが「『まつり』と『まこと』」という題の論文で、8月14日に書き始め、同月26日に書き上げている。これは、「学海」という雑誌の1945年7-8月号に掲載された。つまり、この論文は、あの「8月15日」を挟んで、執筆されたということは注目すべきであろう。運命というか、この論文が京大追放の直接的な原因となったと思われる。松村の公職追放には多くの謎がある。波多野先生を初め多くの先輩や同僚たちは、松村が公職を追放されることになるとは予想していなかったようである。高坂、高山、西谷、鈴木の4教授の公職追放は日本海軍との秘密会合が公になったとき、ある意味では当然と言えると思うが、松村はこれとは全く無関係で、わたし自身の理解するところによれば、この秘密会のことは松村に対しても秘密であったと思はれる。松村はこのことを戦後になって知らされたのではないだろうかと思う。松村は「『まつり』と『まこと』」という論文に書いたことを真剣に考えていたということは明確であるように思う。その意味では、海軍の働きかけに協力した教授たちが「体制内反体制派」というスタンスを持っているのに対して、松村はストレートに戦争に協力した、しかも真剣に協力したということは否定できないように思う。だからこそ、協力教授たちは松村と親しく交わり、至近距離で生きながら、松村には参加を呼びかけることができなかったのではないか。これ以上のことは本日のテーマから離れますので、止めます。
3. 結び
わたしが本日、松山と松村との2人を取り上げたのは、「天皇制とキリスト教」とか、「京都学派の戦争協力」というテーマにおいてではない。あくまでも「京都のキリスト教」というテーマのもとに、この2人の思想と活動とを取り上げたのである。
少し乱暴な言い方をすると、京都という「場」で、日本文化とキリスト教とが真剣に出会うと、松山や松村のような発想が生まれるということ、また、それを育てる文化が京都にはある、ということである。それはアカデミックなバックグランドというよりも、一般民衆レベルでのサポートがあるということである。これは、京都でのクリスチャンアカデミーでの活動や教会での牧会の中で実際に出会い、経験していることである。
京都の一般的な信徒が、松山や松村の思想をよく理解したとは思えないが、松山が対峙した「日本固有宗教=古神道」の強靱さや、松村が対決した「京都学派の哲学」の強靱さについては、京都の人々は身をもって知っている。それはキリスト者でも同様である。むしろただ知っていると言うだけではなく、彼らはそれを誇りにしている。だからこそ、京都のキリスト者たちは、これに立ち向かうキリスト教の学者を、その人の思想を理解できなくてもサポートする。とくに、聖職者や神学者と呼ばれる人々よりも、信徒たちの中に強くそれがある。それは宗教的寛容さと言うよりも、むしろ自己の宗教に対するロイヤリティ(誠実さ)と他宗教に対するレバレンス(reverence 崇敬)との絶妙のバランス感覚である。このバランス感覚が、自己の信仰へのファナティシズムを克服する。

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