ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聞くということ (あおい橋)

2003-11-20 10:16:00 | 小論
聞くということ
大人は子どもについて「話せるようになった」とか、「まだ話せない」ということには強い関心を持つが、「話が聞けるようになった」とか、「話を聞かない」あるいは「話を聞けない」ということをあまり気にしないようである。しかし、言葉の習得の過程を考えれば、話せるようになる前に聞けるということがなければならない。従って、話せる子どもは聞けるはずである。
幼稚園の園長になって十五年目になる。今年の四月から、思うところがあって、年少組(三才児)の子どもたちに毎週一回お話(素話)をしている。これはわたしにとって一つの挑戦である。限られたボキャブラリーと少ない経験とでどれだけおもしろい話ができるのか。子どもたちは耳から聞いた言葉だけで物語の展開を理解できるのだろうか。
子どもたちに話をする場合、絵や人形などを用いて、つまり子どもの関心を惹きつけ、理解を助けるという教育技術もある。あるどころか、そういう手法があまりにも多すぎる。スイッチ一つで、たちまち子どもたちを惹きつける映像はふんだんに流れてきて、楽しい時間を提供してくれる。しかし、それで本当にいいのだろうか。真の知識というものは「自分の言葉」によって把握されたもののみである。そういうことに慣れてしまった子どもたちは、学校での「ことば」による授業に耐えられなくなってしまっている。小学校では、「話せる」けれど、「聞けない」子どもたちが教室内を徘徊し、大学では言葉だけによる講義に耐えられなくなって、「私語」が氾濫する。電話でさえも「画像」がなくてはつまらないという。問題はすべて「聞く」能力の低下である。
子どもたちにとって大切なことは、話す言葉を聞いて、そのストーリーを理解し(つまり、筋を追うこと)、そしてそれを楽しむ能力である。実際に年少組の子どもたちを前にしてお話をしたら、ほとんどの子どもたちは目をキラキラ輝かせて聞き、反応し、楽しんでくれた。わたしは本当にうれしかった。子どもたちは「聞く能力」を持っている。もっと正確には、幼い子どもたちには聞く能力が残されている。この能力をだめにしてしまっているものは何か。
教師も親も、子どもの「わがまま」は聞くけれども、心の中からの本当の叫び声を聞いていない。心の叫び声を聞いてもらえない子どもたちは、ますます「わがまま」になり、声だけが大きくなり、中途半端な「ことば」の投げ掛け合いが会話だと錯覚する。心の叫びを聞いてもらえた子どもは、もうそれだけで落ち着き、人の話も聞けるようになる。その意味では「聞いてもらう」ということが、癒しになる。
考えてみると、「話す能力」とは自分が持っている知識を表現することであるが、「聞く能力」は自分の知らない知識を新たに獲得することである。もちろん「見る能力」も知識を得ることができるが、こちらの方は「主観」がどうしても邪魔をする。それに対して、「聞いて得た知識」は純粋である。この能力を豊かにしないで、豊かな人生はない。
聖書に「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による」という言葉がある。(ロマ10:17)これは信仰だけではない。人生そのものが、先ず「聞く」ということから始まる。
旧約聖書にこういう出来事が記録されている。後に偉大な預言者になるサムエルがまだ幼少の頃、祭司エリのもとに預けられ教育を受ける。ある夜、少年サムエルは誰かの呼び声で目を覚ましエリのもとに駆けつけ「何かご用ですか」と尋ねる。しかし、エリは呼んだ覚えがない。そういうことが三回も繰り返され、エリはハッと気がつく。そしてサムエルに教える。今度、誰かの呼び声が聞こえたら、「僕聴く、主語り給へ」と答えなさい。この出来事がサムエルの預言者としての第一歩であった。(サムエル前書3:1-10)師エリがサムエルに与えた教えは「聞く」ことであった。
視覚は感覚のレベルを超えると哲学的認識に至り、聴覚は感覚の底が割れて宗教的悟りに達する。人生の最後は全身耳になる。
「神其の造りたる諸の物を視給ひけるに、甚だ善かりき。夕あり、朝ありき。是六日なり。第七日に安息給えり。」(創世記1:31、2:2)

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