ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

トルストイ「人はなんで生きるか」

2008-04-09 14:00:59 | ときのまにまに
「落ち穂の天使」という美しい本が未知谷という小さな出版社から発行された。「訳者あとがき」を含めてもわずか76頁の小さな、しかし非常に魅力的な本である。実は、この本はトルストイの晩年の名作「人はなんで生きるか」の新しい翻訳である。「落ち穂の天使」という書名は「訳者まえがき」で、この書名とトルストイの作品との関係をこう語っている。冒頭で旧約聖書のルツ記を引用し、次のようにまとめる。(この本には、「訳者まえがき」と「訳者あとがき」とがある!)。
「旧約聖書の時代の遥か昔から、私たち真実に生きるところにはどこにでも、優しい神の配慮が隠されていることを、トルストイ思想の結晶とも言える、この作品において、皆さんが再認識してくださることを祈っています。私たちのまわりには、神が天使たちに命じて、わざと抜き取らせて撒いておいてくれった落ち穂が、数限りなくあるはずです」。
以上で分かるように、この「落ち穂の天使」は確かにトルストイの「人はなんで生きるか」の翻訳であるが、通常の「翻訳」の限界を超えて、この著書自体が一つの作品であると言っても過言ではないだろう。
トルストイはこの短い作品を仕上げるのに約1年を要したと言われている。それまでに彼が発表した作品は「戦争と平和」、「アンナカレーニナ」などいずれも長編であったが、晩年になって長編小説から宗教哲学論へと展開しようとして、最初に書かれた作品がこれであった。その内容の深さと文学作品としての豊かさについてはくどくどと解説する必要はないであろう。
わたしたちにとって、今まではこの作品は中村白葉の翻訳(岩波文庫)で親しまれてきた。この翻訳も名訳であることには違いないが、ここにもう一つ「超名訳」というべき素晴らしい贈り物が与えられた。トルストイ自身はこの民話を民話に相応しい民衆の言葉で書いたと言われている。しかし、翻訳というものはどうしてもその言語的な魅力というものが薄れてしまう。ロシアの民衆の言葉を日本語に移す場合に、民衆の日本語というものが問題である。その困難な問題を美事に克服したのが、ふみ子・ディヴィスさんの翻訳である。

       

彼女は福岡県で生まれ、モスクワの民族友好大学(現・ロシア大学)を卒業し、現在はシンガポールでロシア伝統芸術の細密画塗りの作家として活躍している。このトルストイの作品を翻訳するに至った経過については詳しいことは分からないが、ともかくトルストイの曾々孫にあたるナターリヤ・トルスタヤという画家との出会いであろう。この作品に深みを与えている挿絵はすべて彼女の作品である。不思議な出会いのもとにトルストイの息吹を感じる作品がわたしたちに贈られた。彼女はトルストイの意図に即して、この作品に登場する民衆の独り言と会話文をすべて博多弁で翻訳している。たとえばこんな調子である。「わたしの上着返しちゃり。このたった一枚きり残ったのまで飲み代にされちゃ、たまりませんけね。ほれ、こっちによこさんね、このそばかす犬みたげな、へんなおっさん。卒中でも起こして、くたばってしもたらいいと!」。これを中村白葉訳(岩波文庫)では、「さあ、わしのジャケツを返しておくれ。たった一枚きり残っていたのを、それまでわしからはぎ取るようにして自分が着てしまってさ。さあ、おくれったら。このそばかす犬め、中気にでもなってくたばるがいいのだよ!」となる。
面白いことに、この本を読んでいると、思わず声を出して読んでいる。声を出さないでは読めない、と言うべきであろう。わたし自身は福岡県に転宅してちょうど1年で、だいぶ博多弁に慣れてきたとは言え、自分では話せない。文字面だけ読んでいると、よく分からないが、周囲の人々の博多弁を思い起こしながら、字面をなぞって声を出して読むと、何か不思議な気持ちになる。博多弁の持つ「優しさ」みたいなものがこの作品のテーマと美事に一致する。

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