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ぶんやさんの記録

村上作品をめぐる鼎談(内田樹・都甲幸治・沼野充義)

2010-06-11 10:00:56 | ときのまにまに
普通は、先ず作品を読んでから、いろいろな書評やその作品に関する論評を読むものですが、今回だけは一寸手順が狂って、作品そのものを手に取る前に論評ともいうべきものを読んでしまいました。村上春樹の作品はそんなことで味わいが下がるような「やわ」ではないと思うからでした。
「文学界」7月号に、内田樹・都甲幸治・沼野充義による『「1Q84 BOOK3」徹底分析』といういわば鼎談が掲載されており、売り切れてしまったら困るので、早い目に手に入れて読んだという訳です。ついでに告白すると、この雑誌の7月号から木田元の『哲学散歩』が始まるという宣伝文句がもう一つの動機です。この方はわずか4頁の気楽な文章ですが、非常に読み応えがあります。これだけで950円の値打ちがあります。
さて、鼎談の方に戻ると、そこで語られている内容は非常に刺激的で、村上春樹という作家をまな板の上にのせて、ふるう3人の包丁さばきは美事なもので、この鼎談そのものがひとつの作品であると言っても言いすぎではないでしょう。全体的な感想は、村上作品を読んでからとして、ここでは、枝葉末端の一節だけを取り上げて紹介しておきたいと思います。
村上作品における主人公の年齢設定について議論している部分で、『海辺のカフカ』では主人公を15歳に設定し、今回の『1Q84 BOOK3』では主人公は29歳に設定されているということをめぐって、先ず沼野氏が問題提起をして、それに内田氏が次のように答えます。
「15歳の村上春樹は60歳の村上春樹の中に今も生き生きと存在していると思うんですよ。60歳の自分のなかにはさまざまな年齢のときの自分が混在していて、それがリアルな身体性を備えているから、戻ろうと思うと、そこにいつでも想像的に戻っていける。生々しい身体感覚を備えた過去の自分が今の自分のなかに現存している。だから、その中に入り込めば、彼らをして語らしめることができる」。内田氏はそこに作家としての村上春樹の非凡さがある、と言います。「29歳のときに29歳の視点で小説を書いても多分それほど深みのあるものはできない。でも、歳を重ねて、60歳の人間が29歳になって書くと不思議な残響というか、翳りのようなものが出てきてる。29歳の人が書くよりずっと「29歳らしく」なるっていうことがあると思うんですよ」。
この内田氏の意見に対して、それでは村上春樹は実際の年齢より上のこと、つまり「未来(60歳以上の主人公)」のことを作品化できるか否かということについて、他の2人が軽く異見を述べて議論は展開します。この仮説的問題提起は考えさせられます。実は、この議論の前提として、鼎談のはじめの方に、村上作品は基本的には「著者自身が体験したディテールをほとんど排除して書いた『構造的な私小説』であるという理解が共有されています。作品そのものを読む前に、これ以上のことを書くとは差し控えたいと思います。ここではわたし自身に対する一種のメモとして書き留めておきます。

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