ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

文屋家で叙勲者が出た

2009-11-06 16:14:16 | ときのまにまに
わが文屋家には全く無縁だと思っていました。まさか、文屋家の誰かが天皇さんから勲章を貰うなんて考えもしていませんでした。それで、弟から「兄貴には不本意かも知れないが、今度、天皇陛下から勲章を貰うことになったよ」と電話を貰ったときには本当に悪い冗談だと思いました。そんな訳で、弟にはお祝いもせず、招待された祝宴にも欠席しました。
先日、弟から宅急便で記念品を贈られて、やっと「本当やったんや」とじわりと実感が出てきて、遅ればせながら弟にも「おめでとう」という電話をしました。
親爺もお袋も貧乏牧師で、兄のわたしも「ちゃらんぽらん牧師」で、本人も「横滑り牧師」で、一番下の弟が金にならない「賛美歌作曲家」兼大学教授という「変わりもん一家」から、ともかく叙勲者が出たということは有り難いことです。京都学芸大学(現京都教育大)で美術を専攻し、卒業後は大阪府立の養護学校で10年間美術教師を務め、家庭の事情で教師を辞職し、神学校で学び、牧師に転身し、暫く大阪で牧会をしてから山形の田舎で副牧師兼保育所園長という二足のわらじをはいて30年、その間山形女子短大で12年間非常勤講師を兼務したりした結果が評価され今回の「瑞宝双光章」(今年の春)の受賞となったとのこと誠に名誉なことです。勲章の種類がどの程度のものかはよく分かりませんが、ともかく弟のこれまでの生き方には兄貴としても勲章を出したいくらいです。とくに、わたしは自分自身の信仰に生きるために「父の家を離れ」(創世記12:1)、「父の家」のことは弟に押し付けてしまいました。信仰に生きるということはその意味ではエゴイズムを貫くことでもあるようです。その意味では、弟の方が「父の家」を守るために、「自己を棄て」、父と母と共に生き、母を天に送り、父の最後を看取ってくれたのです。彼がいたからこそ、わたしはわたしの「我が儘」な生き方を貫くことができたと思っています。

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