聖霊降臨後第4主日(特定9)(2014.7.6)
イエスの軛・わたしの軛 マタイ11:25~30
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
1.教会の看板
昔の訳では「凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません」であった。この言葉は歯切れもよく、恐らく教会の看板に最も多く用いられている言葉で、教会からこの世に対して呼びかける言葉として最もふさわしいと考えられているからであろう。人間は誰でも全て「労する者であり、疲れた者である」という考えが教会の側にある。そして、その人々が教会に来れば「休める」と信じているのだろう。しかし実際にどうか。むしろ教会に来ることによって、今まで以上に苦労や煩わしさが増えるのではないだろうか。この教会の看板は誇大広告になっていないだろうか。
人々に対するイエスのこの呼びかけの言葉は、現在ではもう無効になったのだろうか。決してそうではない。むしろ、ますますこの呼びかけの言葉は教会から呼びかけられなければならないし、むしろ教会の内部に向かっても叫ばれなければならない、と思う。
多くの敬虔なキリスト者は伝統的にこの言葉を「罪と咎の重荷」というように解釈し、イエスのもとに来ることによって罪の重荷が軽減されるという。果たしてそうであろうか。そんな訳がない。罪というものを「大したことない」というように安易に考えてはならない。罪をなめてはいけない。むしろイエスのもとに来るならば、良心が鋭くなり罪に対して厳しくなり、「罪の重荷」は重くなる。私たちはイエスのこの言葉の意味をもっと深く読み取らねばならないであろう。
2. イエスの時代の疲れた者、重荷を負う者
当時の民衆は文字どおり、「疲れた者・重荷を負う者」であった。先ず、全体として衣食住の供給が不十分であり、しかも富の分配が不平等で一般の民衆は「日常の糧」に苦労をしていた。それは今も変わらない。
それだけではなく、宗教的な戒律が厳しく、経済活動にも多くの制約があった。どんなに生活が苦しくても安息日には絶対に働くことが禁止されていたし、1年に1度は生贄を携えて神殿に参り、罪の清めをしてもらわねばならなかった。それらの戒律は経済だけでなく、教育にも倫理にも強い影響力を持ち、人々はまさに疲れはて、重荷を負わせられていた。
イエスはその人々に「我に来たれ」と呼び掛けておられる。それではイエスのもとに行ったらどうなる。非常に重要な結論を先取りして言ってしまえば、イエスのもとに行けば、そんな戒律なんか守らなくてもいい、と言ってくれる。これは大変なことで社会秩序を破壊するような宣言である。律法のために人間があるのではなく、人間のために律法があるのだから、生活が苦しければ、安息日の戒律なんか破ってしまえと教えてくれる。律法学者や神殿の祭司たちが「罪だ、罪だ」と騒ぎ立てることをイエスはそんなものは罪でもなんでもないと宣言してくれる。
こんなエピソードが残されている。ある安息日にイエスたちは麦畑を歩いていた。彼らはその時空腹であった。それで麦の穂を摘んで食べた。それを見ていたファリサイ派の連中は安息日の規定に反している、と騒ぎはじめた。それを聞いてイエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われた。
それで実際にイエスのような生き方をすると社会から受ける制裁はかなりきつい。陰口なんていうレベルを超えた制裁が加えられる。従ってそういうことが怖い人間はイエスに従うことが難しい。イエスもそういう批判をまともに受けている。しかしそういうことを実際に超越してみれば何ていうことはない。結局、神から捨てられるとか、神から呪われるというのは宗教家たちの脅しにすぎないことがわかる。もう少し厳密にいうとそういう脅しに乗せられている世論の力にすぎないのであって、そんなものは恐れるに足りない。むしろイエスのような生き方においては神の前での「安らぎ」があると宣言する。
つまりイエスが語る重荷とは、当時の言葉で言うならば「律法の重荷」であり、現代的に言うならば「世間からの重荷」である。当時の人々はこれに苦しめられていたのであり、毎日毎日彼らの生活を追いつめていた重荷、苦労とは、宗教の軛であった。イエスの与える休みとは、宗教からの休みであり、律法からの解放である。ここでイエスが「私が与えるくびき」とは、宗教のパワーを打ち破る力である。宗教から逃げ出し、宗教と無関係に生きる、つまり堕落とか世俗化というような逃避ではなく、宗教を超える、新しい生き方である。
3.なぜ私に関係があるのか。
イエスの呼びかけが当時の民衆たちにとって「福音」であっただろうことは十分に想像できる。しかし、それが何故私たちにとっても「福音」であり得るのだろうか。宗教の重荷は宗教に関係しない人間には無関係である。果たしてそうだろうか。本当に宗教に無関係に人間は生きることができるのだろうか。そんなことはあり得ない。そこにイエスのこの言葉の深さがある。全ての人間は人間である限り、宗教の重荷にあえいで生きている。人間が自らの有限性と人生のはかなさ、人間という存在の悲劇的性格を知っている限り、宗教は無関係ではあり得ない。有限性を知っているということは、永遠を知っているということでもある。はかなさを自覚するということは、有意義な人生に対するあこがれを持つということである。人間が死ぬことに対する恐れを抱くということは、永遠の命を求めているということである。人間は自ら動物的欲求によって生きていると同時に、より高い次元の命に属する存在でもあるということである。それがありのままの人間である。そしてそれが人間であるが故に、宗教があり、律法があるのである。宗教とか律法とは人間の内部にある完全を目指す努力である。だからこそ人間は宗教の故に、律法の故に苦しむのである。キリスト教を含め全ての宗教は人間に救いを約束する報酬として教義と伝統を信じることを要求する。それを受け入れることが、不安や絶望から救われることの条件である。時にはそういう教義や伝統が疑わしいものとなったときでも、なお信じることを要求する。従って信じることができないことを信じよという宗教的要求によって人々は労し、苦しむ。
4.イエスの宗教
イエスは、宗教のくびきに苦しむ全ての者に、「私のもとに来なさい」と呼びかけられる。イエスのもとに行くということは、具体的には「イエスのくびきを負うて、イエスに学ぶ」ことである。やっぱりイエスのもとに行くことも一つの宗教ではないか。キリスト教も一つの宗教ではないか。キリスト者も「宗教の軛のもとで苦労する」のではないか。という疑問は常にまとわりつく。事実多くのキリスト者はキリスト教という宗教の軛のもとで労苦している。イエスの言葉は彼らにとって救いになっていない。私たちはイエス自身が「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われた意味を考える必要がある。
「負いやすく、軽い軛」とは一つの矛盾である。程度の差ではない。逆に「イエスの軛」はそれを追うことによって「安らぎが与えられる」という。軛という名の軛の否定である。宗教という名の宗教の否定、律法という名の律法の否定である。
私は先に、宗教とは「人間が完全を目指す努力である」と述べた。それに対して、イエスが与える「軛」とは、私の努力なしに、私を完全にする上よりの力である。私たちがイエスのもとに来るとき、そこに「今までの私ではない私、全く新しくされた私」を発見する。特別に賢くされるわけではない。特別に美しくされるわけでもない。しかしこの世の知恵を超えた知恵、この世の美しさを超えた美しさが私を包む。
「わたしのもとに来なさい」というイエスの呼びかけの意味はこれである。イエスの中に、私自身を新しくする力が宿っているのである。
イエスの軛・わたしの軛 マタイ11:25~30
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
1.教会の看板
昔の訳では「凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません」であった。この言葉は歯切れもよく、恐らく教会の看板に最も多く用いられている言葉で、教会からこの世に対して呼びかける言葉として最もふさわしいと考えられているからであろう。人間は誰でも全て「労する者であり、疲れた者である」という考えが教会の側にある。そして、その人々が教会に来れば「休める」と信じているのだろう。しかし実際にどうか。むしろ教会に来ることによって、今まで以上に苦労や煩わしさが増えるのではないだろうか。この教会の看板は誇大広告になっていないだろうか。
人々に対するイエスのこの呼びかけの言葉は、現在ではもう無効になったのだろうか。決してそうではない。むしろ、ますますこの呼びかけの言葉は教会から呼びかけられなければならないし、むしろ教会の内部に向かっても叫ばれなければならない、と思う。
多くの敬虔なキリスト者は伝統的にこの言葉を「罪と咎の重荷」というように解釈し、イエスのもとに来ることによって罪の重荷が軽減されるという。果たしてそうであろうか。そんな訳がない。罪というものを「大したことない」というように安易に考えてはならない。罪をなめてはいけない。むしろイエスのもとに来るならば、良心が鋭くなり罪に対して厳しくなり、「罪の重荷」は重くなる。私たちはイエスのこの言葉の意味をもっと深く読み取らねばならないであろう。
2. イエスの時代の疲れた者、重荷を負う者
当時の民衆は文字どおり、「疲れた者・重荷を負う者」であった。先ず、全体として衣食住の供給が不十分であり、しかも富の分配が不平等で一般の民衆は「日常の糧」に苦労をしていた。それは今も変わらない。
それだけではなく、宗教的な戒律が厳しく、経済活動にも多くの制約があった。どんなに生活が苦しくても安息日には絶対に働くことが禁止されていたし、1年に1度は生贄を携えて神殿に参り、罪の清めをしてもらわねばならなかった。それらの戒律は経済だけでなく、教育にも倫理にも強い影響力を持ち、人々はまさに疲れはて、重荷を負わせられていた。
イエスはその人々に「我に来たれ」と呼び掛けておられる。それではイエスのもとに行ったらどうなる。非常に重要な結論を先取りして言ってしまえば、イエスのもとに行けば、そんな戒律なんか守らなくてもいい、と言ってくれる。これは大変なことで社会秩序を破壊するような宣言である。律法のために人間があるのではなく、人間のために律法があるのだから、生活が苦しければ、安息日の戒律なんか破ってしまえと教えてくれる。律法学者や神殿の祭司たちが「罪だ、罪だ」と騒ぎ立てることをイエスはそんなものは罪でもなんでもないと宣言してくれる。
こんなエピソードが残されている。ある安息日にイエスたちは麦畑を歩いていた。彼らはその時空腹であった。それで麦の穂を摘んで食べた。それを見ていたファリサイ派の連中は安息日の規定に反している、と騒ぎはじめた。それを聞いてイエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われた。
それで実際にイエスのような生き方をすると社会から受ける制裁はかなりきつい。陰口なんていうレベルを超えた制裁が加えられる。従ってそういうことが怖い人間はイエスに従うことが難しい。イエスもそういう批判をまともに受けている。しかしそういうことを実際に超越してみれば何ていうことはない。結局、神から捨てられるとか、神から呪われるというのは宗教家たちの脅しにすぎないことがわかる。もう少し厳密にいうとそういう脅しに乗せられている世論の力にすぎないのであって、そんなものは恐れるに足りない。むしろイエスのような生き方においては神の前での「安らぎ」があると宣言する。
つまりイエスが語る重荷とは、当時の言葉で言うならば「律法の重荷」であり、現代的に言うならば「世間からの重荷」である。当時の人々はこれに苦しめられていたのであり、毎日毎日彼らの生活を追いつめていた重荷、苦労とは、宗教の軛であった。イエスの与える休みとは、宗教からの休みであり、律法からの解放である。ここでイエスが「私が与えるくびき」とは、宗教のパワーを打ち破る力である。宗教から逃げ出し、宗教と無関係に生きる、つまり堕落とか世俗化というような逃避ではなく、宗教を超える、新しい生き方である。
3.なぜ私に関係があるのか。
イエスの呼びかけが当時の民衆たちにとって「福音」であっただろうことは十分に想像できる。しかし、それが何故私たちにとっても「福音」であり得るのだろうか。宗教の重荷は宗教に関係しない人間には無関係である。果たしてそうだろうか。本当に宗教に無関係に人間は生きることができるのだろうか。そんなことはあり得ない。そこにイエスのこの言葉の深さがある。全ての人間は人間である限り、宗教の重荷にあえいで生きている。人間が自らの有限性と人生のはかなさ、人間という存在の悲劇的性格を知っている限り、宗教は無関係ではあり得ない。有限性を知っているということは、永遠を知っているということでもある。はかなさを自覚するということは、有意義な人生に対するあこがれを持つということである。人間が死ぬことに対する恐れを抱くということは、永遠の命を求めているということである。人間は自ら動物的欲求によって生きていると同時に、より高い次元の命に属する存在でもあるということである。それがありのままの人間である。そしてそれが人間であるが故に、宗教があり、律法があるのである。宗教とか律法とは人間の内部にある完全を目指す努力である。だからこそ人間は宗教の故に、律法の故に苦しむのである。キリスト教を含め全ての宗教は人間に救いを約束する報酬として教義と伝統を信じることを要求する。それを受け入れることが、不安や絶望から救われることの条件である。時にはそういう教義や伝統が疑わしいものとなったときでも、なお信じることを要求する。従って信じることができないことを信じよという宗教的要求によって人々は労し、苦しむ。
4.イエスの宗教
イエスは、宗教のくびきに苦しむ全ての者に、「私のもとに来なさい」と呼びかけられる。イエスのもとに行くということは、具体的には「イエスのくびきを負うて、イエスに学ぶ」ことである。やっぱりイエスのもとに行くことも一つの宗教ではないか。キリスト教も一つの宗教ではないか。キリスト者も「宗教の軛のもとで苦労する」のではないか。という疑問は常にまとわりつく。事実多くのキリスト者はキリスト教という宗教の軛のもとで労苦している。イエスの言葉は彼らにとって救いになっていない。私たちはイエス自身が「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われた意味を考える必要がある。
「負いやすく、軽い軛」とは一つの矛盾である。程度の差ではない。逆に「イエスの軛」はそれを追うことによって「安らぎが与えられる」という。軛という名の軛の否定である。宗教という名の宗教の否定、律法という名の律法の否定である。
私は先に、宗教とは「人間が完全を目指す努力である」と述べた。それに対して、イエスが与える「軛」とは、私の努力なしに、私を完全にする上よりの力である。私たちがイエスのもとに来るとき、そこに「今までの私ではない私、全く新しくされた私」を発見する。特別に賢くされるわけではない。特別に美しくされるわけでもない。しかしこの世の知恵を超えた知恵、この世の美しさを超えた美しさが私を包む。
「わたしのもとに来なさい」というイエスの呼びかけの意味はこれである。イエスの中に、私自身を新しくする力が宿っているのである。