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ぶんやさんの記録

エドガー・スノーが見た「第1次上海事変」

2016-07-19 14:29:17 | 雑文
エドガー・スノーが見た「第1次上海事変」(135~186頁)

わたしが満州から上海州帰って間もない1932年1月はじめに、日本人は1年間のはげしい軍事行動の収支計算を合計しはじめていた。帳薄の黒字欄には本庄と多門による征服、中国政府の威信を粉砕したこと、日本軍が帝国(註:日本本土)のほぼ2倍の面績を占領したこと、日本軍部独裁下に新しい傀儡政権が発足したことが記入された。赤字欄には長城の南の中国人の反感が増大したこと、日本の誠実さに対する世界の信頼が失われたこと、国際連盟を実際上無視したこと、ある種の平和機構を反古にしたこと、中国との経済関係が断絶したことがしぶしぶ記入された。陸軍参謀本部もわたしの知り合った民間人の大部分も最後の一事項をのぞいては、1931年の決算で大いに満足すべき利益をあげたと思っていた。
だが中国における日貨排斥運動は、今や日本にとって大きな頭痛の種になるほどひろがっていた。中国市場か死んでしまったため、港には何百隻の船か空しくつながれ、工場は閉鎖され、あるいは操業をやめていた。1931年の最後の4カ月間に日本から中国ヘの輪出は、7,600万円(8千ポンド)または約40%の減少となった。外国人の目からみた場合、日本がなお中国への輪出を60%も維持しているのは驚くべきことだった。しかし日本人の目にはこの経済断絶は明らかに理不尽なものと映った。彼らは日本軍部がはるか北方の3つの省を占領したというだけの理由で、なぜ揚子江流域の中国人が日本商品に敵意をもたねばならないのか納得がいかなかった。軍事行動と商売とは一体どんな関係があるというのか。
上海では抗日救国会の指導のもとに日貨排斥はその頂点に達していた。反日感情はあらゆる階層の間にひろがり、中国人がそれほどの結束を示したことは史上まれだった。この世紀に入ってからなんらかの中国侵略ヘの報復として、8回にわたる排日運動が行われたが、今度のように日本の貿易の息の根を止めるほどの効果をあげたものはなかった。
日本はこの日貨排斥運動は国民政府の公然たる指示を受けており、それは明らかに挑発と見做されると非難した。双方の間に怒りを込めた覚書が交換された。西欧側にとっては、満州の心臓部に対して日毎に日本の銃剣が深く突き刺さっていく一面で、このような抗議書を読むことは滑稽だった。だが、日本人はそのことを少しもおかしいとは思わなかった。彼らは組織的な侵略および隣国の領土奪取という抽象的な事柄を、経済関係の断絶という具体的な報復行動に結び付けて考えることが出来なかった。

<以下、非常に長いので断片的に書き出す>

1932年1月中ごろついに事件が持ちあがった。上海で中国人暴徒に襲われて日本人の生命が失われ、これまでの注目に値する記録が破られたのである(註:この緊張の中、日本人は誰も命を奪われていないという記録)。1月18日、5人の日本人の僧がどうしたわけか共同租界の虹口地区からさまよい出て、隣接した中国地区の閘北ヘ入っていった。彼らははじめうちわ太鼓を鳴らして注目を集め、それから日本の国歌を歌ったらしい。「次第に緊張化の度を増している」と公式に発表された状況下で、これはいささか軽率な行動だった。このことが続いて起こった小さな暴動を挑発したようである。このさわぎで3人の僧が負傷し、のちにその1人が死亡した。
やがてその悪名を世界にとどろかせることになる超愛国主義者の若い日本浪人たちは、これを中国人の日本商品不買運動に報復する絶好の機会だと考えた。つぎの夜、棍棒、ピストル、ナイフで武装した約50人の浪人連中は、僧たちがうちわ太鼓を鳴らしていた場所へ乗り込み、僧たちを襲った人間が勤めていたといわれる近くの中国人タオル工場に放火した。けんか腰のまま彼らは虹口地点ヘ戻ってきたところを、放火を目撃していた租界の警官にとめられた。逮捕に抵抗した彼らは警官に対し遠慮会釈なく武器を使った。中国人警官2人が殺され、浪人の1人も瀕死の重傷を負った。双方に犠牲者が出たことで、これらの案件はけんか両成敗という伝統的な東洋の解決法をとったかもしれなかった。だが日本側が望んでいたのはそういうことではなかったようだ。翌朝1月20日、口ひげを生やした背の低い村井日本総領事は、いつもの通り折りえりのボ夕ン穴に花を飾って上海市長呉鉄城に会い、4項目を盛りこんだ要求書を手渡した。それは日本人僧侶襲撃に対する正式陳謝、襲撃者の逮捕、慰謝料と入院費の支払、すベての日貨排斥運動の取締り、反日諸団体の即時解散を要求したものだった。(140頁)

こういう状況の中で、12月中国側では南京の国府政権と広東政権とが「連合政権」を樹立し、蒋介石将軍は一時的に「党総裁」と軍司令官の地位を辞任し、広東は「独立宣言」を撤回した。南京の新政府では故孫逸仙博士の遺児孫科が執行委員長となり、南方派が支配権を握った。(142頁)

しかし、孫科新政府にはそれだけの実力がなく、1ヶ月もたたないうちに、蒋介石を南京に呼び戻し、政権は蒋介石の手に移った。(143頁)

これまで上海で起こった紛争は、日本と中国当局間に限られていたことを注目していただきたい。中国側はこれまで他の諸外国に対してなんらの脅威を与えたこともなかった。塩沢幸一海軍少佐の高圧的な宣言に対して中国側地区はある程度の防衛措置をとったが、彼らの方から攻撃する模様はまったくなかった。中国軍が中国側地区にいたことは別に異とするに足りない。中国軍はいつもここに駐屯していたのである。のちに十九路軍が租界を攻撃しようとしているとの噂が広がったが、上海にいる外国人の軍事専門家が入手した情報ではまったくそんなことはなかった。彼らはこの十九路軍が中国でもっとも軍規きびしい部隊として有名なことを知っていた。そのことはやがてこの部隊が中国地区を占領したとき、そこにある外国人の財産をきわめて慎重に保護したことで証明された。
だが数時間以内に外国部隊は「租界防衛」のために出動を命ぜられたことになった。だれに対して防衛するのか。どうしてこういうことになったのか。
塩沢海軍少将はこれから実行すると宣言した行動に、どうして列強諸国を公然と巻きこもうという抜け目のない考えを思いついたのだろうか。1月7日租界防衛委員会の会議が開かれた。同委員会は上海市参事会のイギリス人議長、イギリス警官隊の司令、イギリスその他諸国の上海義勇兵団の司令および租界に駐屯するイギリス、アメリカ、イタリア、日本の各国部隊の司令官によって構成されていた。この会議で海軍大佐鮫島男爵を通じて塩沢海軍少将は非常事態の宜言を要請した。彼がこれを要請する理由は、翌日午後6時に日本軍の最後通牒の期限が切れる前に中国側が承諾の返事を出さないかぎり、日本側は「自由行動」をとる決意をもっているので、租界はその結果動乱に巻きこまれるおそれがあるというのだった。こういう要請をする裏には、塩沢海軍少将が防衛委貝会の何人かのメンバーのうちに精神的支持を期待していることが明らかに読みとれた。いずれにしても防衛委貝会は討議の末、参事会に対して非常車態宣言を(非公式に)勧告することを決めた。
さて今や非常事態下に日本、アメリカ、イギリス、イタリアの各国部隊と上海義勇兵団から成る全租界防衛部隊は、租界境界線に防壁を築き、平和と秩序を維持するために「あらゆる手段」をとる義務が事実上生ずることになる。このような条件をつくっておけば、塩沢は行動に対する全責任を負うことなしにその部隊を租界内ヘ移駐させ、またあとで実際にやったように中国地区内に侵入させることさえできるだろう。彼はその行動は市参議会の要請にもとづく共同行動のひとつであると主脹することもできるのである。
「僧侶殺害事件」の数カ月も前に開かれた租界防衛委員会の会議で、租界防衛のための予定計画が決められていた。(145〜148頁)

日本の立場の有能な代弁者のK・川上は最近出版された「日本は語る」という興味深い本の中で述べている。「どのような公式説明がされようとも、また情状酌量の余地ありといえども、上海ヘ日本が単独介入したとはとんでもない失策であった」。膨大な戦死者、戦費を、それによって得られた結果と比較してみると川上の主張が至極当然であることがわかる。(註:K・川上氏がどういう人物が不明)
中国側の損害は甚大だった。中国政府発表による公式報告によれば、民間人の犠牲者は分かっているだけで死者8,080人、負傷者2,240人、「行方不明」10,400人となっている。814,000人以上の人が直接被害を受け、男女24万人が家や財産を失い、30万人あまりが失業し、そのうち5分の1は食うや食わずの状態になった。日本軍占領地域内の種々の被害金額を合計すると1億5千万ポンドにのぼり、そのうち住宅、商店、事務所、倉庫の被害が2千4百万ポンドで、全工揚の半数が破壊され、その損失は7百万ポンドに達した。そのほかの資産の損失は8千万ポンドを上回った。これらは公式発表の数字だが、外国側の推計にくらべてわずかに上回っているにずぎない。
日本軍に砲爆撃されたり占拠されたりした学校の数は、大学12、中学校17、小学校49にのぼり、これら教育施識の損害は1,400万ポンドと推定される。さらに道路に10万ポンド、橋に2万ポンドの被害があり、運行停止と破損による鉄道の損害が、200百万ポンドを超える。一般企業の損失は推測困難だが、海運会社、港湾業者、倉庫業者、港湾施識だけでも収入減と戦争による破壌で100万ポンドの損失と計算された。
蔡廷錯将軍が中国軍の損害に関する国民政府あての詳細な公式報告の写しをわたしに見せてくれた。それによると十九路軍と五路軍の損害は、戦死が将校:214人、下士官兵:4,060人、負傷が将校677人、下士官兵:9,153人となっている。こ の合計は 14,104人で、民間人の死傷者10,320人を合わせると、今回の戦争による中国人の人的損害は、「行方不明」の10,400人は別にしても25,000人近くにのぼる。
日本軍の司令部はこの34日間の全戦闘期間中に、陸海軍の損失は戦死:385人をふくめて2.628人と発表した。この数字は満州で駐在武官や新聞特派員に発表されたものと同じように、真偽のほどは保証できかねる。わたし自身も日本軍戦線のうしろにいたとき、2度にわたって、その日に正式発表された日本軍の死傷者よりもほぼ2倍くらいの数を実際に目撃した。日本軍は内地にでさえちゃんとした死傷者名簿を公表しないから、正しい数字を知ることは不可能に近い。1人の日本兵を殺すのに10人の外国兵が必要だと、日本人が一般に信じこんでいる裏にはこんなからくりがあるのだ。
日本としてはどんな成果があったのだろうか。当時上悔にいた3万人の居留民のうち2万人が内地ヘ避難し、戦闘がつづいている間は戻らなかったことをみても、現地邦人を保譲したとはいえない。だがこの戦争が中国国民の間に非常にはっきりした心理的反応を生んだことはたしかだった。3月はじめ宋子文財政大臣は記者会見で次のように述ベている。
「上悔をめぐる宣戦布告なき戦争の混乱と砲煙の中で2つの基本的事実がはっきりと浮き彫りされた・・・・・ 第1は国家の存続はひとえに軍事力の大きさにかかっていることである。第2は適当な装備と組織さえあれば、中国の将兵も十分に祖国を防衛できるということである。
われわれはこれまで国際連盟、ワシントン9カ国条約、パリ協定といった国際的協定が外国の侵略に対して弱小国家を完全に守ってくれるという話を聞かされていた。これはまったくの幻想にすぎなかった。ジャングルの法則がまかり通っている。今日わが国は軍事的弱体性に対する代価を払っている。したがって中国が国家として生き残るためには、殺人の技術に精通しなければならない。一般教育、商工業、民主政治といったものよりも、国防をすべてに優先させなければならない・・・・・幸いにして今回の上海における恐ろしい戦争で何かわかったかことがあったとすれば、中国の将兵もきわめて不利な条件のもとで戦えるということであり、国家の独立のためには死ぬことを知っているということである」。
これは別に深遠な見解というほどのものではなかった。中国の指導者たちがもう10年も前にわかっていたはずのものだった。だが宋の意見は、空虚な身ぶり以上のものに頼っていてはダメだということを、やっと南京政府が認識しはじめたことを示していた。同時にそれは中国の有産階級の考え方を代表していた。それは力の裏づけのない条約や不侵略協定の無価値さを中国国民がさとったことをはっきりと語っている。
彼らがこれをさとったことは、中国軍の兵士たちが実に男敢な態度をとったことと相まって、日本軍が予想したものとはいささか異なった結果を生んだ。上海戦争の教訓は軍の内外を問わず、青年層を中心にあらゆる階層を刺激し、断固たる抵抗の決意と共に、新しい男らしさ、自信、自尊心を生んだ。その当座、中国人は背骨をまっすぐにして軍事力で国を守る姿勢を固めたようだった。少なくともしばらくの間は、それまでの内戦中には思いもよらなかった形で、中国人の思想と行動が統一に向かったかに見えた。一般大衆の目を国民の福祉と国家の運命に向けさせることに成功したようだった。
この精神の高揚を利用して、強力な抵抗運動に7億人の中国人をかりたてるだけの英知と勇気のある政府が中国存在したならば、日本は北方で新帝国を建設しえなかったであろう。世界中が認めた不法侵略に対して、中国がきわめて勇敢に直面したため、海外でも大きな支持が巻きおこった。アメリカの新聞もヨーロッパの新聞も日本軍国主義を非難し、多くの団体が平和を乱す者に対して行動せよと要求した。ジュネーブの連盟総会では中小国が連盟規約第16条の発動を大国に働らきかけていた。それは日本に対して完全な経済断交を開始せよというものである。
このような事態発展のため、日本陸軍参謀本部の企図はつまずいた。中国首脳と西欧の軍事観測者たちが一般にもっていた意見では、陸軍参謀本部は揚子江下流全域に軍事行動を拡大する企図をはじめからもっていたのであった。日本陸海軍の強硬輪者たちは、上海の抵抗を簡単に排除し、つぎには南京を占領し、国民政府に新しい不平等条約を押しつけようと考えていたようだった。彼らはまた南京に満州の独立を認めさせ、上海を「自由都市」とすることを同意させ、中国を事実上日本の保護領とする1915年条約(21カ条要求の落とし子)を承認させるつもりだったらしい。しかしそのような政策を遂行するための費用、必要な作戦の規模、世界中に巻きおこっている反対を、東京としても考慮しないわけにはいかなかった。3月はじめ上海で停戦協定が成立した時点で、日本は上悔地区に55,000人の部隊を派遣し、この遠征で1憶5千万円の国費を使っていた。上海と南京の間にいる中国部隊を撃退するだけでも、その2倍の兵力と2倍の円が必要だった。満州における日本の地位がまだきわめて不安定な現状では、列強の報復(その可能性は少なかったが)という危険をおかしてまでも、このような難事業を試みる力は日本になかった。
「古ギツネ」の犬養首相は高くついた「流産」が起こったことを十分に承卸していた。彼は日本が得たものは世界中の悪評、中国人の憎悪、将来敵に回るかもしれない国々における帝国陸解軍の威信失墜のほかには何もなかったことを知っていた。また犬養は上海での大失策のおかげで、日本が満州でやっていることに、それまで共感を示した外国がひどく当惑していることも見抜いていた。
しかし長城の南の中国へ進攻するのは時期尚早だと犬養内閣が軍部を説得するには2カ月以上かかった。最後に「古ギツネ」はやむなくその権限を行使して天皇に直訴した。彼は天皇(陸海軍の最高司令官)に説いて、最終的に軍の撤追命令を出させたとみられている。彼の勧告と、それによって軍隊の撤退が行われたことは疑いもなく賢明な措置だと思われるが、それは軍部ファシストを大いにくやしがらせた。この勇気ある老宰相が難されたのは多分そのためであろう。
5月5日、に中間に上海停戦協定が成立した。その協定が上海とその周辺地域の非武装化をきめていたので、中国の愛国者たちはこれを「十九路軍に対する裏切り」として非難した。だがこの協定は同時に上海の中国地区から日本軍の撤収をきめていたので、日本の国粋主義者たちは激怒した。
5月10日、日本政府は上海派遣の全部隊を1カ月以内に撤収すると発表した。
5月13日、犬養首相は閣僚たちとともに裕仁天皇の宮廷の晩餐会に招かれ、彼の親友だった孫逸仙(日本では「孫文」として知られている)の人柄などについてお話も申し上げた。
5月15日、一団の武装した士官候補生と青年将校が77歳になる首相官邸に乱入し、彼の命を奪った。上海での「退却」に対する報復だと思われる。(182〜186頁)

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