ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 03/16

2016-03-18 21:16:16 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。整形外科で定期検診。ヨハネ第1書簡を読む。午後から海の中道公園散策。こんなに花のない公園見たことない。帰宅後疲れて30分仮眠。夜、「マツコの知らない世界」は私の知らない世界でもある。10時半、就寝。6時に起床。血圧(138:79,66)・体調・快調。チュン、チュン。

20植村 光郎さん、望月 克仁さん、他18人
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久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 こんにちは。今週後半も、よろしく、お願いします。


文屋 善明
3月16日 6:22 ·
お目覚めの花。「ガラス越しで失礼します」「宗像市って本当にいいところですね」「ハイ、とくに高齢者に親切な町です」「確かに、高齢者の人口比は高いようですね」「それで20年後にはどうなるでしょうね」「高齢者が20年後の宗像市のことなど心配しないくてもいいです」。(宗像市役所にて)
文屋 善明さんの写真

35藤木 冨士子さん、佐藤 静代さん、他33人
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清水 行雄 おはようございます。こんな花が活けてあるのは、たぶん宗像市役所がいいところなんでしょうね。


文屋 善明
3月16日 6:51 ·
2016 日々の聖句 03月16日(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。(Pro.3:29)
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(Gal.6:10)
私の黙想:
今日の聖句、格言としては非常に面白い。とくに「悪意を耕すな」という表現は抜群である。口語訳の「あなたの隣り人がかたわらに安らかに住んでいる時、これに向かって、悪を計ってはならない」には味がない。フランシスコ会訳では「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企んではならない」もよく練られた訳ではあるが、面白さがない。文語訳はさすがに格調高い。「汝の隣、汝の傍らに安らかに居らば、之にむかいて悪を謀る事勿れ」。ついでに岩波訳を見ると「お前の隣人に悪いことを企てるな、彼がお前のそばで安心して住んでいるのに」と訳し、註で「企てるな」を文字通りには「悪を耕すな」と言う。これらを並べて見ると、珍しく新共同訳が抜群である。直訳なのに味わい深い。「悪意を耕す」という表現には時間をかけて、積み上げられる「悪意」、初めは他人同士で偶然、隣人同士になり、何の悪意も善意もなかったのに、時間の経過と共にお互いに相手の生活状態が判ってくる。その相手が自分より良い生活をしていると羨ましくなり、いろんな事を勘ぐるようになる。相手が「安心して生活していると」、逆にそれが疎ましくなり、シャクに触り、それが積もり積もって強烈な悪意となった時が危険である。自分の悪意が鏡のように相手の悪意として見えてくる。これが「悪意を耕す」ということだ。
特に、マンション住まいだと、このことを切実に思う。

23藤木 冨士子さん、藤岡 秀興さん、他21人
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藤木 冨士子 シェアします。


文屋 善明
3月16日 6:59 ·
今日の名言:@Jewish_proverb
金持ちに、子供は居ない、後継ぎが居るだけだ。(ユダヤの格言)
<一言>上手いね。この種の、つまり財産やお金に関するユダヤの格言は抜群ですね。ドラマ「遺産争族」(「遺産相続」のまちがいではありません)を思い起こします。

22藤木 冨士子さん、大野 泰男さん、他20人


文屋 善明
3月16日 8:21 ·
今週もなかば、いよいよ聖週が直前に迫ってきました。それで、聖週と棕櫚の主日について、まとめてみました。
聖週と棕櫚の日曜日について
日本聖公会の祈祷書では、復活日の一週前の主日はのそのまま事務的に「復活前主日」で、翌日が復活前月曜日、次が復活前火曜日、その次が復活前水曜日、木曜日になると聖木曜日で、金曜日は聖金曜日、括弧付きで受苦日となる。土曜日も聖土曜日で、この週は全体として聖週と呼ばれる。
1.復活前主日
聖週の日曜日が復活前主日である。この日は伝統的にはイエスのエルサレム入城の日とされる。ところが奇妙なことにこの日の福音書ではその出来事は取り上げられていない。むしろ復活前主日はA年もB年もC年も福音書朗読が長いということで記憶されている。A年ではフルに読むとマタイ26:36から27章全体、節にして106節、B年はマルコ14:32から15章全体で88節、C年はルカ22:39から23章全体で89節、いずれも相当に長い。何しろゲッセマネの祈りから死と埋葬までを一気に読むのである。聖公会の礼拝でいうとほとんど説教分の時間がかかる。そのことを考慮して祈祷書でもかなり短縮した形になっているが、それでも長い。つまりこれが祈祷書による復活前主日の意味である。
それで非常におかしなことに、この部分にはエルサレム入城の記事はない。にもかかわらずこの主日を棕櫚の主日」と呼ぶ。福音書のどこを読んでもエルサレム入城の出来事が何時のことだったのか明瞭には語っていない。ルカではエルサレム入城の記事は19:28~44に述べられているが、22章に至って「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」(Lk.22:1)と述べられている。その間にかなりの時間が経過してることを示している。マルコではエルサレム入城の記事は11章の始めの部分であり、それから神殿粛清の事件やユダヤ人との議論があって14章で「過越祭と除酵祭の二日前」(Mk.14:1)となり、マタイもマルコとほとんど同じように、エルサレム入城の記事は21:1~11で、イエスを殺す計画は26:1で述べられている。つまり、どの記事でも聖週の日曜日とは思われない。ともかく聖書的な根拠なしに、イエスは聖週の日曜日にエルサレム入城したというスケジュールが決められて、そういうことになっている。
2.棕櫚について
復活前主日は、俗に「棕櫚の主日(Palm Sunday)」と呼ばれている。イエスがエルサレムに入城したとき人々が棕櫚の枝をかざしてイエスを歓迎したということに因むといわれている。
私は復活前主日にカトリック教会の礼拝に参加したとき、そこでは棕櫚ではなく「ソテツの葉」が用いられていた。カトリック教会では、この日の主日を「枝の主日」と呼び、必ずしも「棕櫚の葉」にこだわってはいないようである。それで何故「棕櫚の葉」なのかと思って調べてみると、聖書では人々がかざしていたのが棕櫚の葉だったという記事はヨハネ福音書12:13だけである。しかも、面白いことに新共同訳では「棕櫚」もなくなり「ナツメヤシの枝」と訳されている。つまり棕櫚の主日の棕櫚はもう聖書にはない。強いて言うなら「ナツメヤシの枝の主日」ということになるが、それも根拠は弱い。最も古い福音書マルコでは「野原から葉の付いた枝」(Mk.11:8)であり、単にマタイでは「木の枝」(Mt.21:8)であり、ルカに至っては人々は「自分の服」(Lk.19:36)だけで枝などは影も形もない。何で「棕櫚」になってしまったのかその理由は憶測でしかない。何処かで誰かが間違ったのかも知れない。
3.聖週について
復活前主日からその週の土曜日までを聖週と呼び、毎日、聖日としての礼拝が備えられている。以下、毎日の福音書を紹介します。
復活前月曜日にはヨハネ12:1~11またはマルコ14:3~9が取り上げられイエスがベタニアでマリアから香油を注がれた記事を読む。
復活前火曜日にはヨハネ12:37~38,42~50またはマルコ11:15~19が取り上げられ、イエスによるエルサレム神殿の粛清あるいはユダヤ人たちとの対立の記事が読まれる。
復活前水曜日にはヨハネ13:21~35またはマタイ26:1~5,14~25が取り上げられユダの裏切りおよびユダヤ人によるイエス殺害計画の記事が読まれる。
木曜日から少々表現が変わる。その日自体に特定化される。
聖木曜日は最後の晩餐の日とされ、そのための特祷もあり、福音書ではヨハネ13:1~15、またはルカ22:14~30が取り上げられる。ルカでは聖餐式制定の記事が読まれ、ヨハネではイエスが弟子たちの足を洗うことが中心となる。
聖金曜日は受苦日との呼ばれ、この日の正午に十字架に付けられ、午後3時に息を引き取る。この日について祈祷書では「この日には、特祷、旧約聖書、使徒書、福音書で終わってもよい。その前に朝の礼拝、嘆願を用いてよい」と規定されている。つまりこの日には聖餐式は行われない。興味深い点は古い祈祷書ではこの日の福音書朗読では前後の会衆の言葉は用いない、と規定されていることである。この日の特記すべきことは、ヨハネ福音書の受難物語が読まれることである。フルに読むと18章の始めから19章37節まで、全部で77節である。復活前主日は3年ごとにマタイ、マルコ、ルカの受難物語が読まれるが、受苦日には毎年ヨハネ福音書の受難物語が読まれる。同じ受難物語と呼ばれるが、共観福音書とヨハネとでは視点が全然異なる。ヨハネの受難物語は本当に「受難」物語であろうか。イエスは十字架に問うて「人の子が栄光を受けるとき」(Jh.12:23)という。ヨハネにはゲッセマネの「もだえ」(Mt.26:37)、「血の滴るような」祈りの場面(Lk.22:44)はない。鞭打ちの場面はあるが、それはイエスを釈放するためのピラトの芝居である。ビアドロロサ(悲しみの道)もないことはないが、それは苦しみの道ではない(Jh.19:17)。十字架上のイエスも「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という叫び声は聞こえない。十字架上のイエスには共観福音書に見られるような悲壮感はない。むしろ「ユダヤ人の王」としての死が強調され、イエスは十字架上で死後の母のことを心配し弟子の一人に託している。そして死の直前の言葉は「成し遂げられた」であり、その言葉は勝利の宣言に聞こえる。ヨハネによる十字架は、復活の先取りであり、「栄光の死」(Jh.12:27~28)、「勝利の死」(Jh.16:33)として捉えられている。
聖土曜日、古い祈祷書では「復活前日」と呼ばれていた。この日にはこの日のための特祷もあり、福音書はマタイ27:57~66、あるいはヨハネ19:38~42が読まれる。要するにイエス埋葬の記事である。聖土曜日の特徴はもう既に心は復活に向かっているということである。この日について興味深い点は古い祈祷書ではペトロ第1の3:17~22が読まれていたことである。ここでは死んで葬られたイエスは「霊において生きて」おり「捕らわれていた霊たちのところにいって宣教されました」という事が述べられている。さすがに新しい祈祷書ではこの種の記事については議論を避けるためか、少々ずらして、同じペトロ第1の4:1~8までが読まれる。以上をふまえて、復活日を迎える。

26藤木 冨士子さん、北村 良輔さん、他24人
コメント

門叶 国泰 成程、成程! コピーしてファイルします。
いいね! · 返信 · 3月16日 8:50 · 編集済み
文屋 善明
文屋 善明 どうぞ、どうぞ。これは、あくまでも聖公会でのことですが・・・・

福永 澄 文屋先生、fb上の私の聖書研究の中に、先生のお書きになった「2.棕櫚について」の段落を引用させていただいてもよろしいでしょうか。

文屋 善明 どうぞ、どうぞ。公開されているものは、皆さんのものです。

福永 澄 先生、ありがとうございます。

文屋 善明 「エエルサレム」となっているところの余分な「エ」は削除してください。その他適当に書き改めても結構です。

福永 澄 ありがとうございます。なぜ、棕櫚なのかというところに引っかかっておりましたので引用させていただきます。エルサレムは修正させていただきますね。



文屋 善明
3月16日 8:54 ·
今日の「折々のことば」。俳人・正岡子規の言葉だという。ここで言う「悟り」、キリスト教的に言うならば「救い」であろうが、確かに「救い」というより「悟り」という方がピッタリくる。「救い」というと反射的に「何から」と問いたくなる。そんな問いは不要である。私の生に関する姿勢の問題である。「平気で生きる」、いかなる場合でも。平気で生きるということは「苦しみ」がないということではない。子規は「激痛でのたうち回るような状況」でも「平気であった」という。平気であるということは、よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ。苦痛の中で平常心を失わない。イエスは十字架の上で、母マリアの将来を案じ、弟子に託している。これが「平気」ということであろう。私も「平気で生き、平気で死にたい」ものだ。
文屋 善明さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=984665474944247&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

39藤木 冨士子さん、北村 良輔さん、他37人
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コメント

清水 行雄 さすが子規にして、この言葉です。(^_^)


文屋 善明
3月16日 10:24 ·
私が言いたいことがきちんと書かれている。
作野 均さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=640432149443947&set=pcb.640432166110612&type=3&theater
3月16日 8:09 ·
除染もほとんどされていない、それも大手ゼネコンの金儲けとしか考えていない、どこまで効果があるのか?まったくいいかげんな状況で、「もう大丈夫ですから帰ってきて下さい」って言われても・・・??甲状腺ガンの疑いが見つかっても、体調の異変があっても、あちこちで沢山の人達が突然亡くなっていても、「原発の放射能との関連を証明出来ない」「因果関係を立証出来ない」
「それぞれの寿命ですね」と責任逃れの
決まり文句を繰り返す無責任なこの国の、何を?どこを?信用すればいいというのか(-_-#)?
オリンピックに向けての風評被害払拭の為だけに、真実をねじ曲げ隠ぺい捏造で包み込んで、福島の住民をまるで人柱の様に扱い「みんな早く帰っておいで」と言うこの国は、恐ろしいし、本当に許せない(-_-#)!

《「半殺しにされている」除染4割なのに次々と避難指示を解除する国 》
*2016/3/10 07:00 週刊朝日
http://dot.asahi.com/wa/2016030800166.html

《 原発20キロ圏、戻らぬ若者 
福島・楢葉町、7割が高齢者 》 
*2016/3/16(水)中日新聞朝刊「核心」

◆東京電力福島第一原発の事故で福島県楢葉町に出ていた避難指示が昨年9月に解除され、半年が過ぎた。町域の大半は原発の20キロ圏内。放射線量は下がったものの、約7400人の町民のうち、帰還した人は6.2%にとどまる。しかも7割近くが60歳以上だ。「若い人に戻ってきてほしい」。帰った住民はそう願うが、現実は厳しい。
 ■暗夜
 午後六時を回ると急に暗くなった。町役場南側には二十軒ほどの新興住宅地があるが明かりがついているのは一軒だけ。町の各所を車で回ったが、除染などの作業員が詰めるプレハブ事務所がこうこうと光を放つ一方、JR常磐線竜田駅前は商店のシャッターが閉じられ、人通りはない。
 「ここら辺はほとんど帰ってきてないよ」。駅前の自宅で飲食店を営んでいた佐藤心(しん)さん(79)は言った。今も同県いわき市の仮設住宅で暮らし、帰りたいと願うが地主から店舗兼自宅の取り壊しを求められている。
 店を継いだ息子(53)は役場近くの仮設店舗で営業を再開したが、いわき市に新居を構えた。「戻ってこれるか分からないよ。さびしいね」。佐藤さんは亡き夫や息子夫婦と暮らしてきた家を見ながら、目頭を押さえた。
 ■偏り
 町は木戸川を境に、南北で地区が分かれる。北地区には町の人口の六割が住むが、今月四日時点の帰還率は5%。放射線量が低い傾向にある南地区の帰還率は8・1%と、北地区と開きがある。
 木戸川沿いの家に昨年十二月二十五日、帰還した町議の猪狩守さん(67)は「除染が済んだら(帰ろう)と思っていた」。自宅周辺は放射線量も毎時〇・一五マイクロシーベルトと、国が長期的な除染目標とする〇・二三マイクロシーベルトを下回る。ただ、北側、とりわけ山に近い地域で線量を測ってみると、〇・三マイクロシーベルトを上回る地点が多い。猪狩さんは「まだ線量が高いところがあるからねえ」と懸念を示した。
 帰還率のほか気になるのは帰還した年齢層が高齢者に偏っていることだ。働き手であり世代をつなぐ二十~三十代で帰還したのは計二十人で、帰還率は1%強にすぎない。
 復興庁が一月に実施した住民意向調査でも、四十代以下の人の四割超が「今後町には戻らない」と回答。「帰還には何が必要か」との質問には「医療・福祉」「治安」「商業施設」の回答が多く、町での暮らしに不安を感じている。
 ■受け皿
 町は来春、いわき市に一時移転している小中学校を楢葉町に戻すほか、役場南側の農地を復興住宅や分譲地にして人を呼び戻そうとしている。既に診療所は開設され、スーパーやホームセンターなどの誘致も進んでいる。
 松本幸英(ゆきえい)町長は「人口の半分が戻ってくれば」と期待している。取材で出会った熊野タケ子さん(71)は、自宅の建て替えが終われば、いわき市の仮設住宅から帰還するといい、「子どもや孫たち、若い人にとにかく帰ってきてほしい」と話した。町を回っても同県富岡町の避難住民が地価の上がったいわき市ではなく、楢葉町に家を買い、移住した事例がいくつか確認できた。
 住民の帰還を進め、他の自治体からの移住者や廃炉・除染の関係者も呼び込めば、人口は復活するかもしれない。だが、住民の年齢層の偏りや、廃炉関係者らは一時的な住民である点を考えれば、楢葉町の再建への道は決して楽ではない。
 (東京社会部・小川慎一)

22藤木 冨士子さん、山城順さん、他20人


文屋 善明
3月16日 10:45 ·
私のブログの昨日の閲覧表を見ていて、昔 (2008.7.10)、私が書いた「渡辺善太先生の『回心その前後』を読み返す」という文章をお読みになった方が7人も居られることを知り驚きました。それで、私も読み返しまたが、自分の事ながら、面白いと思いましたので、ここに再録します。
<以下、再録>
お袋の信仰生活について、調べているうちに、渡辺善太先生の「回心とその前後」(全集5収録)を読み返すことになった。なかなか面白い。講談で鍛えた渡辺節が踊っている。とうてい、全体を紹介することはできないし、その必要もないであろうが、ただ当時の教会の説教について面白いことを述べているのでノートしておく。渡辺先生のことを知らない人のために、一言補足すると、先生は日本の生んだ神学的ジャイアンツの一人で、その聖書正典論は今でもその生命力を失っていない。また、説教者としても当代随一であった。
神学校に入学前に、キリスト教に反対している父親から生活費が打ち切られ、生活費を得るために、当時最も著名な牧師であった救世軍の山室軍平氏の鞄持ちのようなことをさせてもらい、生活費と神学校入学のための費用を稼いでいた。
「そのうち私は山室さんの『説教の呼吸』を学ぶことができた。いったい山室軍平という人は、私の50年間の経験において、ただ一人の説教者であった。というのは、この人の説教は、上は大学教授から下は無学文盲の街の人まで、大金満家から酒屋の樽拾いまで、総理大臣から村役場の小使まで、どんな人でも一様に感動させないでおかないという説教であった。しかしこの人の説教はどんな人がきいても、反感を感ずるとか、反発するとかいうことの絶対にない説教であった。ことにこの人の実話または引例の適切にして巧みなことは、独特というべきものであった。私はなん回となく、満堂がうたれて、感涙にむせぶありさまを、私の目でみた。実にこんな説教者という者は、一世紀に3人、4人と出るものではあるまい。
私はいつも説教者としての山室さんを思うとき、必ず中田重治さんを連想する。救霊説教者としては、当時中田さんの右に出る者はなかった。神学的説教者や、思想的説教者や、文学的説教者や、社会的説教者は、ほかにあった。それは中田さんの畑ではなかった。しかし救霊説教となると、それは中田さんの独壇場であった。だが中田さんの説教で困ることは、聴衆の中に、必ず幾人か反感をもち、反発を感ずる人が出ることであった。これにはいろいろな原因があったらしい。山室さんは『下から出て』説教したが、中田さんは『上から出て』説教した。山室さんは説教中に皮肉や悪口は忘れても言わなかった。ところが中田さんの説教の中には、社会的に名の知れた人々や、他教会の牧師などに対して、椰楡と皮肉とが、口を突いて出た。そして、それが実に適切きわまるものであった。だから関係のない聴衆には、とてもおもしろくて、思わず爆笑となるのだが、関係者には腹立たしさを感ぜしめるのであった。<中略>この二人の大説教家に近接することができたのは、私の生涯にとって無上のしあわせであった。」(同 62頁)
このほかに、中田重治氏の説教について、こんなことも述べている。
「説教者はなんといっても、中田重治氏だった。その後50年経った今でも、ちょっとあれだけの説教者を多く見ることはでない。説教中彼の口から飛び出す譜ぎゃく、皮肉などは、思わす聴衆をして爆笑せしめることが多かった。
彼の説教は『聴衆を笑わせて、彼らが口を開いたところへ、福音を打ち込む』という話し方だった。笹尾鉄三郎氏(東京聖書学院初代院長)の説教はこれと正反対で、声はいずれかといえば女性的で、話がくどくて聖書の引照が多くて、肩のこる話し方であった。ただ、しかし『コクのある』ということにおいては、そこのいずれの指導者にもまさっていた。」(同 28頁)
http://blog.goo.ne.jp/jy…/e/9d032f5bcfea7e32392b64aeb0edc72d

21久保和男さん、藤木 冨士子さん、他19人
コメント

徳善 義和 渡辺「徳善君、君は小説読むかい?」。徳「はい、まカフカとか」。渡「駄目だよ、それじゃ、横のものが縦になっているだけだよ」。徳「はぁ?!」。渡「君、落語生で聞いたことあるかい」。徳「いえ」。渡「上野?の◯◯亭に聴きに行っておいで」。徳「はっっぁ」。立教の博士課程で聖書聖典論を講読中の休み時間の会話。思い出しました。

大岩 正己 · 共通の友達: 木下 海龍さん、他3人
学生時代 銀座教会で先生の説教に癒されました。

Chieko Shinbuchi 私の一生の悔恨は、銀座教会に行ったのが遅すぎて、渡辺先生の説教を聞いたことがなかったことです。皆さんの話ばかりで、実際に聞いてないのは、実に残念でした。


文屋 善明
3月16日 10:58 ·
「昨日のツイート 03/14」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP
12藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他10人


文屋 善明さんがCadotさんの投稿をシェアしました。
3月16日 13:07 ·
地方自治体経営の保育所の場合、首長を初め市町村議会、職員等が保育という仕事をまったく理解していない。ただ、「子供と一緒に、チイチイパッパとやっているだけ」という程度の理解しかしていない。それが彼らの給料が安い根本的な理由。

Cadotいいね!
3月15日 19:20 ·
勤続7年の保育士が給与明細公開。
驚きの実状に大きな波紋が広がる…!


勤続7年の保育士が給与明細公開。その過酷な実態に衝撃走る…-Cadot(カド) |
勤続年数7年の保育士の給与明細が公開され、その実情に衝撃が走る。
CADOT.JP

30藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他28人


文屋 善明
3月16日 13:11 ·
イミタチオ・クリスチ(64):
わたしたちは心の中の一物によって審くことが往々ある。わたしたちの審きは個人的好悪によってかたよることが多いからだ。
岩波訳は面白い:私たちは、しばしば物ごとを自分の気に入るように批判しがちである。なぜというと、私たちは個人的な愛のために正しい批判を容易に失うからである。

17藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他15人
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文屋 善明
3月16日 14:16 ·
3月10日の「クリスチャントゥデイ誌」によると、日本聖書協会では新しい聖書の翻訳「標準訳」を準備しているということで、去る3月4日、名古屋で事業報告がされた。
非常に重要なので、そのまま掲載します。
http://www.christiantoday.co.jp/…/new-japanese-bible-transl…
日本聖書協会は4日、「どんな翻訳になるのですか? —新しい聖書の特徴—」と題して、新翻訳事業の経過報告と情報交換のための懇談会を名古屋市で開催し、約80人が参加した。
まず同協会の大宮溥理事長が開会の言葉を述べ、翻訳者委員会による新翻訳の原稿は2015年12月の時点で61・2パーセントまで進み、2016年末には100パーセントを目指していることを報告した。現在すでに完成した翻訳のパイロット版を販売しており、これを広く手に取ってもらい、その反応や指摘を反映させ、2018年までに最終的な完成版を作っていくと説明した。
会場では、来場者からの質疑応答も行われた。「"標準訳"という名前はどう決めたのか?」との質問に、同協会の渡部信総主事は、「過去の文語訳、口語訳、新共同訳の流れの中で、これら三つの聖書の見直しの結果としての『標準訳』を、概念として目指そうということで決めました。ただ今のところあくまで仮の名前であり、今後、検討委員会で最終的に決定する予定です」と答えた。
また、「新聖書のサイズ、デザイン、価格は?」「タブレットで読んでいるが、データ販売はするのか?」との質問もあった。
これについては、「現在まだ未決定ですが、聖書は紙の値段が50パーセントを占めており、最近は韓国や中国に依頼して制作しています。最上装版はフランスの紙を使い、オランダで制作しています。世界的には、聖書は"その国の一日の食事代程度"が標準とされていますが、日本は購買力があるため比較的恵まれている側面があります。現在は新約の最も安価なものが約600円、新旧約が3千円ですが、それを参考にして決めたい。データ販売については、無断改変などのリスクもあるので著作権を守るための考慮をしながら行いたい」と回答があった。
また、聖書の固有名詞、人名、地名については、基本的に新共同訳を受け継ぐが、最終的には全ての教派が出席しての検討委員会で決定する予定だと報告があった。
来場者からは、「原典に忠実ということを楽しみにしている。期待している」という感想も多く寄せられた。渡部氏は、「2008年にキリスト教の諸教派にお手紙を出し、18の教派と団体から新しい翻訳に賛成を頂き、集まって翻訳方針を決定し、2010年から翻訳作業を開始しました。この18教派で日本のキリスト教会の約8割を占めており、大方のキリスト教会が賛成してくださったということで、教派にまんべんなく150人以上の研究者、詩人、歌人の先生に協力していただいて進めています。なかなか途中経過をお知らせすることはできませんでしたが、ようやくパイロット版を発表することができました。パイロット版をこれから1、2年かけて、教会の先生や信徒の皆様に見ていただき、率直な意見を寄せていただき、それを受けて最終版を決定する予定です。今後とも発信を続けますので、ぜひご覧いただきご協力いただきたい」と述べた。
またこの日は、翻訳者兼編集委員として携わっている小友聡氏(東京神学大学教授・日本基督教団中村町教会牧師)が、「新聖書翻訳の魅力」と題して、旧約詩文学の新翻訳を具体的に示しながら講演を行った。
なぜ今新しい翻訳聖書が必要か?
まず小友氏は、なぜ今新しい翻訳聖書が必要なのかについて説明した。新共同訳(1987年)に慣れてきたのに、教会や学校が混乱するのでは? という問いも多いという。これに対し小友氏は、言葉は生きており、流転し進化するものだからだと語った。
聖書の原典研究は発展し、この30年間でも多くの聖書学の知見が積み重ねられてきた。かつて共有されていた考え方が、現在では顧みられなくなっていることもある。これが、聖書をどう翻訳するかに関わってくるのだという。
具体的には、例えば雅歌2:7、17では「かもしか(新共同訳)」と訳されているが、これは実は「ガゼル」と訳すのがふさわしいというのが共通認識となっている。
(新共同訳)雅歌2:7「エルサレムのおとめたちよ 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください」
(新訳[案])「エルサレムのおとめたちよ、ガゼルや野の雌鹿にかけて、わたしに誓ってください」
日本では「かもしか」というと牧歌的なイメージを連想させるが、ガゼルはすらりとした足で走るスマートな動物だ。また雅歌2:15では「小狐」と訳されていたが、これは「ジャッカル」と訳されるべきだという。小ざかしい厄介者という「小狐」のイメージは日本人特有のものであって、聖書本来の意味とはだいぶ異なってくる。
小友氏は、「がっかりする方もいるかもしれないが、それは私たちが聖書を正しく理解するために乗り越えなければならない必要なことと考えています」と述べた。
時代とともに変わる日本語と、新共同訳の翻訳理論の課題
日本語そのものも、時代とともに変わる。30年前に普通に使われていた言葉が、今日では使われずニュアンスも変わる。言葉はそのつど検証され、その時代にふさわしい日本語かどうかを吟味しなければならならない、と小友氏は述べ、さらに新共同訳の翻訳理論の課題についても触れた。
新共同訳はカトリック・プロテスタント両教会の礼拝で用いられる最初の日本語訳聖書として16年をかけ1987年に出版された。特徴としては、BHS(BibliaHebraicaStuttgartensia)を底本とした正真正銘の原典訳聖書であるということが挙げられる。口語訳は戦後に英語のRSVを基調としており、文語訳は英語のKJV(欽定訳)を起点にしており、いずれも原典からの直接の翻訳ではなかった。
その意味で新共同訳が、もっとも信頼できる日本語聖書といえるが、翻訳理論の問題があるのだという。
新共同訳に先立った共同訳聖書(1978年)では、翻訳理論として「dynamic equivalence(動的対価値理論)」という、直訳ではなく意訳的な方法が取り入れられた。継承された新共同訳では、意訳的性格から字義的翻訳に近づけられたが、まだその名残りが多く見られ、特に詩文学にそれが多いのだという。
「動的対価値理論」は、ダイナミックな翻訳で意味が分かりやすく読みやすいが、原典に忠実であるということではない。分かりやすくするために、もともと無い言葉を補ったり、不必要に説明を加えている箇所があるのだという。
例えば、雅歌6:6「歯は雌羊の群れ 毛を刈られ 洗い場から上って来る雌羊の群れ。対になってそろい、連れあいを失ったものはない」。
この箇所は、新共同訳では雅歌4:2と全く同一だが、原典を見ると「毛を刈られ」の記述は4:2にはあるが、6:6にはない。並行を意識するあまり、原典にはない下線部が加えられている、と小友氏は説明した。
一方で、省略されている箇所もあるという。ダニエル書11:1(新共同訳)「彼はわたしを支え、力づけてくれる」、(口語訳)「わたしはまたメデアびとダリヨスの元年に立って彼を強め、彼を力づけたことがあります」。
ここでは口語訳のほうが原典に忠実といえるが、口語訳の記述だとダニエル9:1の記述との間に矛盾が生じるため、新共同訳はそれを避けるためにあえて省略を行っているという。小友氏は、「確かに読みやすくなりますが、この判断は余計な詮索(せんさく)ではないでしょうか。やはり原典に忠実であるべきでしょう」と述べた。
小友氏は、「これらの課題を把握した上で、原典の息吹にふさわしい日本語であり、礼拝の朗読に耐えられるものを目指し、時間をかけながら最もふさわしい言葉を探し続けています」と話した。
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「標準訳」はどんな翻訳に? 名古屋で日本聖書協会が懇談会(2/2)
新訳でコヘレトの言葉はこうなる
続いて小友聡氏は、詩文書がどう変わるのか、具体的にコヘレト書の新訳(案)を示しながら、詳しく説明した。以下が、新共同訳と新訳(案)。読み比べていただきたい。
コヘレトの言葉 11:1-10
新共同訳
1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
月日がたってから、それを見いだすだろう。
2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ
国にどのような災いが起こるか
分かったものではない。
3 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。
南風に倒されても北風に倒されても
木はその倒れたところに横たわる。
4 風向きを気にすれば種は蒔けない。
雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
5 妊婦の胎内で霊や骨組みがどの様になるのかも分からないのに、
すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。
6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。
実を結ぶのはあれかこれか
それとも両方なのか、分からないのだから。
7 光は快く、太陽を見るのは楽しい。
8 長生きし、喜びに満ちているときにも
暗い日々も多くあろうことを忘れないように。
何が来ようとすべて空しい。
9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。
知っておくがよい
神はそれらすべてについて
お前を裁きの座に連れて行かれると。
10 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。
若さも青春も空しい。
新訳(案)
1 あなたのパンを水面(みなも)に投げよ。
月日が過ぎれば、それを見いだすからである。
2 あなたの受け取り分を七つか八つに分けよ。
地にそのような災いが起こるか
あなたは知らないからである。
3 霊が満ちれば、雨が地に降り注ぐ。
木が南に倒れても、北に倒れても
その倒れた場所に木は横たわる
4 風を見守る人は種を蒔けない。
雲を見る人は刈り入れができない。
5 あなたは風の道がどうなっているかも知らず
妊婦の胎内で骨がどのようにできるかも知らないのだから
すべてをなす神の業など知りえない。
6 朝に種を蒔き
夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか
あるいは、その両方なのか
あなたは知らないからである。
造り主を心に刻め
7 光は快く、太陽を見るのは心地よい。
8 人が多くの年月を生きるなら
これらすべてを喜ぶがよい。
しかし、闇の日が多いことも思い起こすがよい。
やって来るものはすべて空(くう)である。
9 若者よ、あなたの若さを喜びなさい。
若き日にあなたの心を楽しませなさい。
心に適(かな)う道を
あなたの目に映るとおりに歩みなさい。
だが、これらすべてについて
神があなたを裁かれると知っておきなさい。
10 あなたの心から悩みを取り去り
あなたの体から痛みを取り除きなさい。
若さも青春も空だからである。
1970年代までは、著者コヘレトは世をはかなむ厭世主義者で懐疑主義者であると見なされ、「コヘレトの言葉」は支離滅裂な格言の羅列として書かれたと考えられていたが、40年以上たった現在では、この書は一貫した思想的論調の書として解釈されるようになってきた、と小友氏は述べた。
そこで新訳(案)では、否定表現「知らない」(2節)(6節)はヘブライ語の接続詞に注目し、「知らないからである」と訳される。つまり、「地に災いが起こるかもしれないからこそ、受け取り分(神から与えられているもの)を皆で分け合いなさい」。つまり、否定的な結論ではなく、将来が分からないからこそ逆に今最善を尽くし、とことんまでやりなさい、という"不可知性ゆえの根拠"、現実主義者としての前向きな教えが、新訳では反映されたという。そこで、これまで「空しい」と訳されていたヘブライ語の「ヘベル」は、口語訳のように「空(くう)」と訳されるという。
また、これまで新共同訳ではコヘレトを快楽主義者と見る傾向があった。「しかし、そうではない」と、小友氏は述べた。
これまでコヘレト3:12「人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と」と訳されていた箇所は、できるだけ原典に忠実に、「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に 人の子らに幸せはない」と訳される。
「これによりニュアンスは全く変わり、ヘブライ語原典の息吹をきちんと伝える訳文になっている」と、小友氏は述べた。
コヘレト3:12〜13
新共同訳
12 わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
13 人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。
新訳(案)
12 私は知った。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に
人の子らに幸せはない。
13 また、すべての人は食べ、飲み
あらゆる労苦のうちに幸せを見つめる。
これこそが神の賜物である。
小友氏は、「これまで翻訳編集担当者として、翻訳に携わる多くの方々と話し合い、時には激しく議論する中で、新翻訳は新共同訳を超える21世紀にふさわしい聖書になるだろうと確信しています」と述べ、「単に原典に忠実で信頼できる翻訳というだけでなく、教会の礼拝で厳かに朗読され、大勢の信徒の方々がもっと聖書に親しみ、信仰生活が豊かにされるに違いないと思います。新共同訳が出版されて30年になろうとしていますが。それを超える次の時代がもうすぐ教会にやってきます」と締めくくった。
日本聖書協会では、今後も新翻訳聖書の理解のために、この懇談会を全国で行うという。過去の懇談会での翻訳者の講演内容や、パイロット版の入手についての詳細は同協会のホームページ。

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コメント
眞野 玄範
眞野 玄範 例示されている新訳を見ると、期待できそうで嬉しいです。『コヘレトの言葉』は好きな書ですが、今まであまりにひどかったですから…
いいね! · 返信 · 1 · 3月16日 14:27
松木田 博
松木田 博 私は詩編に大いに文句がありました。あまりにも・・・なので、祈祷会で読むのを途中でやめたことがあります。
いいね! · 返信 · 1 · 3月16日 14:46
服部 弘一郎
服部 弘一郎 コヘレトは良さそうですね。「先のことはわからない。だから今この時をしっかり生きよう。それこそが人間にとっての幸せなのだから」という立場に変わるのかな。
いいね! · 返信 · 3月16日 14:50
藤木 冨士子
藤木 冨士子 翻訳も大事ですが、装丁も考えてほしいです。新改訳の第三版はすぐにバラけてきて、毎日繰り返してページを開くものとしてはどうかなぁと思います。
いいね! · 返信 · 1 · 3月16日 14:56
平野 宏
平野 宏 これで新共同訳、新改訳の新版、そして、出版が遅れている現改訳が出揃うことになります。
いいね! · 返信 · 1 · 3月16日 16:51 · 編集済み
平野 宏
平野 宏 その他に、口語訳、リビングバイブルがあり、岩波をはじめとする各種の個人訳があり、それに加えて、各種のカトリック訳があって、日本は聖書翻訳が盛んです。
しかし、それに伴ってクリスチャンの数も増えて欲しいと願います。
いいね! · 返信 · 1 · 昨日 1:25 · 編集済み
文屋 善明
文屋 善明 聖書協会に対する疑問、なぜ、こんなに重要なことを東京や大阪ではなく、名古屋で開催されたのか。また、この発表に対するキリスト教界の反応の鈍さである。こんなに重要な出来事を10日も放置していた事実。私自身はある特殊な伝手で、これを知ったのは3日ほど前で、それから何にも情報が流れてこないので、しびれを切らして情報をアップしたのです。
いいね! · 返信 · 4 · 昨日 5:46 · 編集済み

松木田 博さんが返信しました · 返信3件
平野 宏
平野 宏 シェアさせていただきます。


文屋 善明
3月16日 16:25 ·
朝日新聞デジタル
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藤木 冨士子 アメリカどうやなるんやろ。

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