ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:復活前主日の福音書

2016-03-19 10:32:44 | 説教
断想:復活前主日の福音書
楽園  ルカ23:1~49

1.復活前主日の福音書
復活前主日の福音書は毎年非常に長い。今年の場合、フルに読めばルカ22:39から23:56までで全部89節もある。イエスが十字架上で苦しまれた5~6時間を思えば、福音書を読む時間が長いといって嘆くこともないが、退屈しないために(退屈するなんてもってのほかである・・・・)、この主日の福音書の読み方についてはいろいろと工夫している教会もある。この長い聖書の言葉の全体を取り上げて説教をするわけにも行かないので、今年は特に十字架上でのイエスの言葉のうち第2の言葉とされる「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(Lk.23:43)を取り上げて共に学びたい。

2.二人の犯罪人 (Lk.23:32~43)
イエスの十字架が2人の犯罪人の間に立てられたことをマタイも、マルコも伝えている。しかし十字架の上での3人の会話を伝えているのはルカだけである。ルカがこの資料をどこから得たのか判らないが、ここにこの記録を載せているルカの考えには興味がある(ルカ23:39~43)。聖書の言葉を引用しておこう。
<十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。>
ここで「犯罪人」といわれている2人について、マルコとマタイは「二人の強盗」(Mk.15:28、Mt.27:38)と書いているが、菅円吉先生は強盗とか殺人者というのではなく「政治犯」だとして説明しておられる。そうかも知れない。そうでないかも知れない。ここではあえて「犯罪」の種類を限定する必要もないであろう。要するに彼らも「死刑囚」であった。だからといって「死刑囚」を特別な人間だと思ってはならない。彼らも十字架の周りでイエスを罵っている民衆や議員や兵士たちと同じ立場に立っている。イエスは彼らすべての人たちのために父なる神に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(Lk.23:34)と祈っている。その中でただ一人だけが「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。つまり、イエスの祈りの言葉にまともに反応したのは彼だけである。十字架上にいた、死ぬことがはっきりしている状況におかれていた彼だけが十字架刑を当然のこととして受け止め、懺悔し、イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りに「アーメン」と答え、彼だけが「思い出してください」と祈ったのである。

3. 「思い出してください」という祈り
人生の最期における彼の祈りはただ「思い出してください」であった。彼はいったいイエスに、彼の何を思い出して欲しいと願ったのだろうか。イエスと共に十字架で死んだ「一人の犯罪人」を思い出して欲しいと。そこには全く欲がない。十字架上で共に死のうとしているイエスという男は自分を殺す人々、自分を罵る人たちのために神に祈る男である。不運な運命を嘆き、呪いの言葉をかけるような状況において、その人たちの罪の赦しを祈る人である。この男と比較するならば、私にはもう何も欲しいものはない。私は間違いなく自分自身が犯した罪のために地獄に行くだろうが、この人は間違いなく御国に行くであろう。自分の人生を振り返るとき、この男とと共に死ねるということこそ最大の幸運であった。その最期の瞬間に私という「一人の犯罪人」を思い出して欲しいというのが彼のささやかな願いであった。
その祈りに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。彼のささやかな祈りに対するイエスの答えは驚くべきものであった。このような状況において、瞬間的に、このような凄い言葉がイエスの口から出てくるとは驚きである。私も驚く。こんな言葉は弟子たちの誰に対しても言ったことがない。
「思い出す」ときについて、新共同訳の「あなたの御国においでになるとき」という句を口語訳では「あなたが御国の権威をもっておいでになるとき」とある。つまり再臨の時を意味している。文語訳は新共同訳と同じ意味である。フランシスコ訳は口語訳と同じで「あなたが王権をもって来られるとき」である。共同訳(新共同訳がでる前に実験的に出された翻訳)では「あなたのお国においでになるとき」で、新共同訳に近い。要するに原文はどちらにでも翻訳できる文章であるらしい。私としてもどちらでもいい、と思っている。はっきりさせてもあまり意味がない。重要なことは「今の瞬間」である。この瞬間に彼はイエスと共に楽園にいる。逆説的な言葉を付け加えるならば、イエスとこの犯罪人にとって十字架の上が楽園である。

4. 楽園(パラダイス)について
イエスはここで「楽園」という言葉を使っている。「楽園」とは「パラダイス」という言葉である。この言葉はもともとペルシャ語で「囲いのある庭」を意味する言葉で「神の庭」を意味する。口語訳聖書ではそのまま「パラダイス」と訳されている。新約聖書ではここ以外では2回(2Cor12:4,Rev.2:7)しか用いられていない。黙示録では「命の木」が出てくるので創世記2章の「エデンの園」を指している。コリント第2手紙ではパウロの神秘的体験を述べている文脈で用いられており、意味は明確ではない。いずれにせよ、キリスト教思想としてはあまりなじまない神話的表現である。

5. 「一緒にの意味」
ここでのイエスの言葉では「パラダイス」という言葉よりも「一緒に」という言葉の方がはるかに重要である。この「一緒に」という言葉の第1の意味は「一緒に死ぬ」ということで、キリスト者にとっては1つの理想である。特に「イエスと共に死ぬ」ということに、重大な意味を発見したのは初代教会であり、特にパウロである。彼はロマ書6章で次のように言う。
「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(Rom.6:3~5)。
イエスは彼に言う。あなたは今、私と一緒に十字架の上にいる。そして「今、将に一緒に」死のうとしている。だからこれから後も、私たちはずっと「一緒にいる」。それが「パラダイス」という言葉の意味である。イエスと一緒にいるということがパラダイスである。初代教会の信徒たちは、この「パラダイス」という言葉に、「救い」という意味を込めている。つまりイエスと共にいることが、救いでありパラダイスであるというのが初代教会の信仰の体験であった。

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