愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

緋寒桜とキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ)」

2016-02-25 21:35:27 | 四季折々の花々

 庭で緋寒桜が8分咲になりました。

 緋寒桜が咲くと本格的な春がそこまで来ていることを感じます。

 緋寒桜は河津桜のような華やかさはありませんが、

 静かな雰囲気で春の到来を告げています。

 今日は緋寒桜とキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ)」を紹介致します。

                        庭に咲いている「緋寒桜」

        小雨の庭で咲いているキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ」

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あなたは、イエスが偉いと思う者は奉仕者でなければならないことを教えられたのをご存知ですか?

2016-02-25 21:14:37 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは、三度目として、ご自分の弟子たちに、エルサレムで祭司長たちに引き渡され、愚弄され、むち打たれ、かつ杭につけられに処せられ、三日目には復活させられることを予告されました。しかし、イエスの弟子たちはまだ、イエスの教えられる意味が十分に理解できていなかったものと考えられます。イエスの弟子たちは、弟子たちの中で誰が一番偉いのかということに関心を抱いていたようです。そのためイエスは弟子たちに辛抱強く、「あなた方の中で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならないこと、および「第一でありたい者はあなた方の奴隷でなければならない」教え、かつご自身の魂(命)は多くの人々の贖いとして与えるために来たことを教えられた場面が、次のようにマタイの福音書に記されています。

 「その時、ゼベダイの息子たちの母がその息子たちと共に近づき、敬意をささげながら何事かを彼(イエス)に求めた。イエスは彼女に言われた、「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った、「これらわたしの二人の息子が、あなたの王国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座るようにお申しつけください」。イエスは答えて言われた、「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」。彼らは、「できます」と言った。イエスは彼らに言われた、「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし、わたしの右また左に座ることは、わたしの授けることではなく、わたしの父(エホバ神)によってそれが備えられている人たちのものです」。

 このことについて聞くと、ほかの十人(の弟子たち)はその二人の兄弟のことで憤慨した。しかしイエスは彼ら(十二人の弟子たち)を自分のところに呼んでこう言われた。「あなた方は、諸国民の支配者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたい者はあなたがたの奴隷でなければなりません。ちょうど人の子(イエス)が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」」(マタイ20:20~28)。

 上のマタイの福音書に記されている通り、イエスの弟子たちの中で、誰が一番偉いのかの関心を抱いていたことが分かります。イエスは神の王国政府でご自分の右また左に座ることをお決めになるのは、み父エホバ神であることを教えられています。イエスは、どのような場合も謙遜でみ父エホバに従順であり、み父エホバ神に栄光と賛美を帰せられ、その手本を残されました(フィリピ2:5~8.ペテロ第一2:21)。イエスは、弟子たちに「わたしの飲もうとしているを飲むことができますか」と尋ねておられます。すると弟子たちは「できます」と答えています。この「杯」とは何を指すのでしょうか。この「杯」とは、イエスの贖いの死を含まない神エホバのご意志のことです。イエスの弟子たちは神エホバのご意志を行うことを明らかにし約束しました。 

 イエスは弟子たちが弟子たちの間の中で誰が一番偉いのか、と論議しているのをご存知でした。そのため、イエスは弟子たちに「あなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の間で奉仕者でなければならない」と教えられました。加えて「あなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければならない」と教えられました。何と優れた教訓でしょうか。真のクリスチャンはイエスのこの教えを守り行っています。イエスの教えられた通り互いを愛し、イエスの弟子であることを示すのです(ヨハネ13:34,35)。ですから、キリスト教世界で用いられているような「法王」とか「枢機卿」とか「神父」とか「牧師」などという人間につける呼称は、聖書、イエスの教えの中にどこにも記されていません。人間が人間の上に高める権威は、イエスの教えられた通り、「諸国民の支配者」が行うことであり、イエスは、弟子たちにそのようであってはならないと教えられたのです。

 さらにイエスは、ご自分が地上に遣わされている意味を弟子たちに証しされました。イエスは人々に仕え手本を示し、ご自分の魂(命)を多くの人々の命と引き換える贖いの死を遂げるために来たことを証しされています。弟子たちに備えをさすために漸進的に教えられています。イエスの教えには実に多くの教訓が含まれています。また、イエスの贖いの死に関しては、独り子イエスを遣わされた比類のない神エホバと、そのみ子イエスのを知ることができるのです(ヨハネ3:16)。イエスの贖いの死と復活は、神エホバのご意志を行うイエスの弟子たちに永遠の命の道も開かれたのです。神エホバとイエスの愛に感謝し、信仰に堅く立たれる方々は幸いです。

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