イエス・キリストは進んで、「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい」招かれました。そして、イエスは自らご自身が「気質が温和で、心のへりくだった者」であることを強調されました。ですから、イエスの教え・エホバの教えを聞いて守り行うことは、「心地よく、わたしの荷は軽い」と保証されました(マタイ11:28~30)。次いでイエスは、安息日に弟子たちが飢えを感じ、穀物畑で穀物の穂(小麦の穂)をむしって食べたのを、偽りの宗教指導者のパリサイ人たちはが非難した事に対して、「わたし(エホバ)は憐れみを望み、犠牲を望まない」と、いうみ父エホバの教え・ご意志を理解していたなら、罪のない使徒たちを罪に定めたりはしないなかった、と諭されました。その時の状況が、マタイの福音書に次のよう記されています。
「その季節のこと、イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え、穀物の穂(小麦の穂)をむしって食べ始めた。これを見てパリサイ人たちは彼(イエス)に言った、「ご覧なさい、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしています」。イエスは彼らに言われた、「あなた方は、ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時にダビデが何をしたかを読まなかったのですか。すなわち、彼(バビデ)が神の家(神殿)の中に入り、みんなで供え物のパンを食べたことを。それは、彼(ダビデ)も、また共にいた者たちも食べることを許されず、ただ祭司だけに許されたものだったのです。またあなた方は、安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを、律法(聖書)の中で読んだことがないのですか。ところが、あなた方に言いますが、神殿より偉大な者(イエス)がここにいるのです。しかし、「わたし(エホバ)は憐れみを望み、犠牲を望まない」ということの意味を理解していたなら、あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子(イエス)は安息日の主なのです」(マタイ12:1~8)。
偽りの宗教指導者のパリサイ人たちは、上記の聖句が示す通りに、神エホバの教えの、「わたしは憐れみを望み、犠牲を望まない」ということの意味を全く理解していないことを露呈しました。安息日(7日目は労働を休み、み言葉を学ぶ日)にイエスの弟子たちが、穀物(小麦)の穂をむしって食べたのを、「労働をした」と、みなし、イエスの弟子たちを非難し、罪に定めたのです。イエスはダビデやその部下の者たちが、飢えた時、祭司のみが神殿で食べることの許されたパンを食べても、神エホバから許されたいたことの、その事実を教えました。人が飢えた時には、人間の規則ではなく、まずお腹を満たすために食べるように、憐れみを示すのはエホバの教え・ご意志であることを教えられました。まして、イエスは神殿より偉大な者であり、安息日の主であることをパリサイ人たちに教えました。このイエスの教えから、神エホバは憐れみの施しを望み、犠牲を望まれていないことを確信できるゆえに、皆様方もいっそう、神エホバに近づきたい、と願われるのではないでしょうか。そのような方々は幸いです。
釣鐘草 ときめくピンク 結ぶ愛 今日の一句
我が家の生後9ヵ月の「ボタンちゃん」