2月中旬に入ると庭でキンポウゲの花が咲いて来ました。
黄色の花びらが鮮やかで、緑の葉に映えています。
キンポウゲの蕾から開き始めの状態も魅力的です。
今日はキンポウゲと丸山公園の遠景を紹介致します。
庭に咲いている「キンポウゲ」
市内大宮町方面から見る「丸山公園」
2月中旬に入ると庭でキンポウゲの花が咲いて来ました。
黄色の花びらが鮮やかで、緑の葉に映えています。
キンポウゲの蕾から開き始めの状態も魅力的です。
今日はキンポウゲと丸山公園の遠景を紹介致します。
庭に咲いている「キンポウゲ」
市内大宮町方面から見る「丸山公園」
イエス・キリストは富んだ人は物質欲を優先するため、神の王国に入るのが難しいが、しかし、「人にとってン不可能でも、神(エホバに)とってはすべてのことが可能です」と教えられました(マタイ19:16~26)。このように、イエスは神エホバのご意志を第一に求め、神エホバに寄り頼む生き方をすれば、何事も成し遂げることが可能であることを教えられました(マタイ6:33.箴言3:5,6.詩編1:2,3)。次いで、イエスは弟子たちに神の王国政府が天に設立される時、イエスに従って来た弟子たち(油注がれた弟子たち)は、十二の座・王国政府の構成員に迎えられることの保証を与えられました。さらに、イエスの名、つまりイエスの贖いの死に信仰を働かせ、すべてを後にする、つまり忠実に仕える真の弟子・クリスチャンたちは永遠の命を受け継ぐ祝福の保証を与えられた場面が、マタイの福音書に次のように記されています。使徒たちを含む油注がれた14万4千人のクリスチャンたちは、天の神の王国政府の王イエスとの共同支配者としての特権を受けます。
「その時ペテロが答えて言った、「ご覧ください、わたしたちはすべてのものを後にして、あなた(イエス)に従ってまいりました。実際のところ、わたしたちのために何があるのでしょうか」。イエスは彼ら(弟子たち)に言われた、「あなた方に真実に言いますが、再創造のさい、人の子(イエス)が自分の栄光の座に座るときには、わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り、イスラエルの十二部族を裁くでしょう。そしてわたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、あるいは地所を後にした者は皆、その幾倍も受け、また永遠の命を受け継ぐでしょう。
しかし、多くの最初の者が最後に、最後の者が最初になるでしょう」」(マタイ19:27~30)。
上のマタイの福音書に記されている通り、ペテロは、自分たちが富んだ人とは大いに異なり、正しい選択が出来たことを、「ご覧ください、わたしたちはすべてのものを後にして、あなた(イエス)のもとに従ってまいりました」と言うことができました。それで、「実際のところ何があるのでしょうか」と、イエスに尋ねています。イエスは、「再創造のさい、人の子(イエス)が自分の栄光の座に座るときには、わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り、イスラエルの十二部族を裁くでしょう」と、保証されました。「再創造のさい」とは、どういう意味でしょうか。これは神の王国によって、今の邪悪な事物の体制が断ち滅ぼされ、エデンの園のようになる、つまり義の宿る楽園になることを示しておられるのです。そこでは永遠の命の祝福を受けるのです(ダニエル2:44,45.ペテロ第二3:10~13.啓示21:3~5)。そして、ペテロや他の弟子たちは、全地に及ぶ義の宿る楽園を、十二の座、つまり神の王国政府の構成員として王国政府の王イエスと共に共同支配する特権に預かる保証が与えられたのです(啓示14:1~5)。また、「イスラエルの十二部族を裁く」とは、文字通りの十二部族のみではなく、啓示の書によれば、それは世界中の人々を象徴的に表現した言葉であることが分かります(啓示7:4~14)。イエスは、弟子たちに今から生じることまで含めて教えてくださっています。そうした、イエスの弟子たちの忠実な歩みは、どんな犠牲を払うだけの価値があることをイエスは保証されているのです。
嬉しいことに、今もイエスの真の弟子たちは、イエスの教えの通り神の王国の良いたよりを宣明していますので、数々の祝福に預かります(マタイ24:14;28:19,20.ルカ4:43;8:1)。イエスは、「わたしのため、また(神の王国の)良いたよりのために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、あるいは畑を後にして、今この時期に百倍を、・・・来たらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」(マルコ10:29,30)と祝福を約束されました。イエスが約束された通り、イエスの真の弟子たちは、現在世界のどこに行っても、実の家族との関係よりも緊密で貴重な、互いの愛によって仲間のクリスチャンたちとの関係を享受しています(ヨハネ13:34,35)。
それから、イエスは「多くの最初の者が最後に、最後の者が最初になる」と述べられましたが、これは何を意味しているのでしょうか。イエスは富んだ人のように物質第一主義の人でる多くの人は、神の王国に入らないと言っておられるのです。霊的な人ではなく、物質的な人は「最後」になるのです。しかし、イエスの弟子たちのように心が純真で謙遜、また温和で従順な人たちは、独善的な宗教指導者パリサイ人から「最後の者」として見下されている多くの人たちは、「最初」になる、という意味です。また、当時のイエスの弟子たちが、天の神の王国政府において、王であるイエス・キリストの共同支配者なる特権が与えられる「最初」の弟子たちを意味しています。ペテロたちはそのような祝福が保証されたのです。
慎みと 気品を添えし ヘレボルス 今日の一句
鉢植えの「シンビジウム」