貨物廠という場所は、戦前の硫黄島住民で硫黄島に残されて軍属として犠牲になった八十余名のうちの十数名の方がこの場所で戦没されたといわれる場所です。貨物廠への入口を示す石碑の写真です。ここから徒歩で少しで、貨物廠の壕の入口です。
6月に訪問した硫黄島の様子の紹介を続けております。北部にある兵団司令部壕、別名、栗林壕の入口です。入口からすぐに下りになっていますが、すぐに平らな通路に出ます。数年前まで、7.8回は中に入ったことがありますが、ここ数年は中に入れなくなっております。
前回に続き、栗林壕とも呼ばれる兵団司令部壕の入口前にある観音像です。
この壕には、3,4年前まで入って中を見ることができましたが、ここ数年、中に入ることはできなくなっています。栗林中将が最後の指揮を執ったといわれる天井が高く広い部屋もありますが、途中で、膝をついて這わないと通れない低い箇所があるので、出入りとすれ違いが難しい壕です。
この壕には、3,4年前まで入って中を見ることができましたが、ここ数年、中に入ることはできなくなっています。栗林中将が最後の指揮を執ったといわれる天井が高く広い部屋もありますが、途中で、膝をついて這わないと通れない低い箇所があるので、出入りとすれ違いが難しい壕です。
今年の6月半ばに訪問をした時の硫黄島の写真の紹介を続けております。前回に続き、これも、北部の壕が多くある場所の近くのロランタワー跡の交差点にある黄色い花の写真です。
今年も一日目の出身集落への里帰りから戻った後の夕方に近い時間に、硫黄島をランニングしました。自衛隊の方々が走るのとすれ違いながら、500mlの水を手に持ってのランニングでした。コースはほぼ同じでしたが、昨年より少し長く、宿舎の平和祈念会館から、このロランタワーの場所を越えて、キタ観音を過ぎた先のT字路まで行って往復しました。夕方近くとはいえ、ほぼ真上と思うような太陽の位置で日陰がほとんどない猛暑の中ですので脱水には十分に注意をして走りました。復路でこのロランタワー跡まで戻ってくると、「もうちょっとだ。」と安心をしました。
今年も一日目の出身集落への里帰りから戻った後の夕方に近い時間に、硫黄島をランニングしました。自衛隊の方々が走るのとすれ違いながら、500mlの水を手に持ってのランニングでした。コースはほぼ同じでしたが、昨年より少し長く、宿舎の平和祈念会館から、このロランタワーの場所を越えて、キタ観音を過ぎた先のT字路まで行って往復しました。夕方近くとはいえ、ほぼ真上と思うような太陽の位置で日陰がほとんどない猛暑の中ですので脱水には十分に注意をして走りました。復路でこのロランタワー跡まで戻ってくると、「もうちょっとだ。」と安心をしました。
硫黄島での二日目の島内の各所訪問の午前中は、大阪山壕から北部の壕が中心になります。北部の壕が多くあるあたりに、米軍の接収後に設置されたロランタワーの跡があります。そこにきれいな黄色い花が咲いていました。
硫黄島の医務課壕の中の写真です。この辺りは入口にも近く、そうでもありませんが、空気取りのための縦穴を越えて進むと、一気に暑くなり、サウナにいるような温度になります。6月の硫黄島は外にいても時間と条件によっては40度近くになりますが、その外に出てくると涼しく感じるというほどの暑さです。
医務課壕という名前のとおり、怪我人や病人の方も収容されていたと思います。
地熱による壕内の暑さですので、戦時中と今の条件とが同じであったかどうかは何とも分かりません。ですが、怪我や病気で収容されて水不足の壕の中で過ごすことは地獄ような過酷さであっただろうと思われます。
医務課壕という名前のとおり、怪我人や病人の方も収容されていたと思います。
地熱による壕内の暑さですので、戦時中と今の条件とが同じであったかどうかは何とも分かりません。ですが、怪我や病気で収容されて水不足の壕の中で過ごすことは地獄ような過酷さであっただろうと思われます。
硫黄島の医務課壕の中の縦穴です。この壕は広くて、照明設備も用意されていて中まで入って行ける壕です。入口から入ってこの縦穴の場所を越えて進むと急に暑くなってきて、まるでサウナのようになります。奥まで入って、またこのあたりまで戻ってくると、6月硫黄島は外にいても猛暑なのですが、「涼しいところまで戻ってきた。」と感じるほどに奥は暑いです。