台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台北州 芝山巖神社

2012-07-16 08:50:36 | 台北州
昭和5年(1930年)鎮座
祭神:台湾教育に貢献した330人

芝山公園の102段の石段を登り詰めると、芝山巖神社が祭られていた場所があった。今は参道が残っているのみである。当時の神社遺跡はないが、102段の石段と境内の石段がここに神社が存在したと思わすことができる。現在、本殿があった場所は、「雨農閲覧室」となっている。
本殿があった石段の左側には、明治29年(1896年)に建立された学務官僚遭難碑があり、碑の裏側に当時の内閣総理大臣伊藤博文の書が刻まれていた。これは日本統治後まもなく、初代台湾総督の樺山資紀に対して統治政策のなかでも教育を重要視すべきとする伊沢修二の具申により日本から第一弾の6名の日本語教師が台湾に派遣され、芝山巖にあった国語傅習所で日本語および日本語教育が始まった。伊沢修二の日本帰国中の明治29年(1986年)元旦に6名の教師が台湾総督府で行われる予定であった祝賀会に参加する途中に抗日「土匪」に殺害された日本人に対する遭難碑である。碑の側面には殺害された6名の名(山口県華族 楫取道明、愛知県士族 関口長太郎、山口県士族 伊原順之助、群馬県平民 中島長吉、東京府平民 桂金太郎、熊本県平民 平井数馬)が刻み込まれている。更に、これとは別に真新しい六士先生之墓が多少離れたところに見ることができる。
そもそも芝山岩神社は昭和天皇の御大典記念事業として台湾教育会で検討されたものであり、昭和5年(1930年)に「無格社」として建立された。その後、神社への昇格が認められたようであるが時期は確定できていない。

* 雨農閲覧室:蒋介石の忠臣である載雨農のことで、戦後青島から南京まで飛行機で遭難している。この載雨農を記念した図書館である。


102段の石段

本殿のあった場所

学務官僚遭難碑

往時の神社
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 海外神社研究会 台湾神社の... | トップ | 台東庁 高(とくこう)祠 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
芝山巌神社復興 (松田康幸)
2013-10-10 19:07:36
芝山巌神社の復興を願っている者です。
先生のご指導をお願いしたいと思っています。
返信する

コメントを投稿

台北州」カテゴリの最新記事