台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

林本源園邸

2020-05-23 14:22:11 | なし

林本源園邸は台湾新北市板橋区にあり、1893年に台湾5大豪族の1つであった林本源一家によって建てられた庭園と邸宅の総称である。

ー拙書『台湾に渡った日本の神々』より抜粋ー

 そもそも、林本源は個人名称ではなく、祖先の名前を襲名した「家号」であり、三房(血族関係に結ばれた家族)より構成された。当時の第一房は林熊徴が主人。第二房は林維源の一家であり、林爾嘉、林景仁、林祖壽、林松壽、林柏壽、第三房は林維源の義弟である林維濂の一家で林彭壽、林鶴壽、林嵩壽であった。そして、最年長であった林維源が林本源一族を統率していた。日本による領台が開始されるや否や、林本源一家は枋橋(現在の新北市板橋区西門街9号)の邸宅に雇人のみを残して厦門に逃れた。明治30年(1897)5月に総督府が台湾及び澎湖の住民に対して最終的な国籍の選択(清国または日本)を行った際、林維源は、まず第三房の林鶴壽と林嵩壽を渡台させる。
 林維源は清国に於ける名門であり、李鴻章(当時の欽差大臣)とも親しかった。下関条約の際、伊藤博文内角総理大臣に対して、林家の保護を懇託したともある。また、後藤民政長官が明治33年(1900)5月に厦門地方を巡視した際、林維源は自宅で宴を設け、「我林家一族の子弟は皆不肖にして殊に幼年者なるを以て我が百年の後は誠に憂慮に堪えす閣下願くは寛仁なる庇護と教訓とを垂れ玉へ」と懇願し、後藤長官も快諾して林家のために力を致されたるとした。
 領台以降も厦門に留まった林維源が明治38年(1905)に死去するや、残された財産を巡ってお家騒動の状態に陥る。この相談役として柳生台湾銀行頭取、佐藤台北庁長や生沼弁護士が推薦される。後藤民政長官の内地への転任にあたり、林家改革を元三角湧(現在の三峡区)弁務署長里見義正に任命する。
林本源の所有する田園の時価は約600~700万円とも言われ、一説には多く見積もると1500万円とされた。これだけの財産を三房及び財産分配方式である六記号に分かれ、更に細分化された。複雑さを加えた財産処理は祝辰巳民政長官から引継いだ大島久満長官と林本源を代表する林爾嘉との間で新合約字がなされる。林維源死去の当時、合約字に基づき、上海の香上銀行から台湾銀行に鞍替えさせられた林鶴壽名義の預金額は224万元あった。この資金で、本島人による唯一の製糖会社を興すことを勧められ、経営者の人選を託したのが新渡戸稲造であり、当時の民政局殖產課技手の小花和太郎(明治22年札幌農学校予科中退)がその候補となった。
 一方、林家大改革の基礎となるべき総弁(全体管理者)は第一房の林熊徴となり、逓信大臣となった後藤新平を訪問している。この時、林家家政整理の顛末を報告し、後藤長官在任中の指導訓示に感謝の意を表示、更に製糖会社設立の由来、動機、事業現状及び将来の事業計画について詳しく説明している。


 

 

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