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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

鹿野忠雄 --- 縦横山林間

2011-12-30 13:43:10 | ビデオ・映画紹介
今週、台湾師範大学の張素玢副教授から一枚のCDを頂いた。張先生には台湾の移民村についての情報を頂いており、お世話になっている方である。そのCDには「鹿野忠雄 縦横山林間」とタイトルが書かれていた。CDケースの裏を見ると「日本統治時代の後期に台湾にいた日本人であり、有名な博物学者。台湾の山林や生物および原住民を研究し、卓越した業績をのこした。このCDは伝説の学術探検家を将来の世代が再認識できるようにするために80年前の彼の足跡を追い、雪山および蘭嶼、更には日本での取材に赴いた」と書かれている。台湾先住民の研究に多大な成果を残した龍学者森丑之助や考古学者・人類学者・民俗学者である鳥居龍蔵は有名であるが、鹿野忠雄は全く知らない人であった。CDを見て、まさかこのような人がいたとは驚き。また、このように台湾の歴史研究に貢献した日本人の業績を評価して頂き、嬉しく思う。是非、この機会に鹿野忠雄を知って頂きたく。「鹿野忠雄」を検索すると、You Tubeでこのビデオの一部を見ることが出来る。

なお、このCDの完成を記念しての試写会およびパネルディスカッションが9月19日、台湾師範大学でに行われた。下記はその時の写真である。


鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24日 - 1945年(昭和20年)7月15日? 消息不明)は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。 業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に『山と雲と蕃人と』などがある。
-----ウィキペディアより



CDの表紙

2011年9月19日の発表会

サインを行う張素玢さん
コメント (8)
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台南州 西螺社

2011-12-23 23:43:34 | 台南州

昭和12年(1937年)鎮座
現住所:雲林県西螺鎮(東南中学校園)

この神社は東南国民中学校の「中興樓」前に南西向きにあった。但し、神社そのものの情報は全く入手できなかった。唯一、西螺鎮公所の「西螺鎮志」の中に当時の西螺商業専修学校の生徒が西螺社に参拝している写真と神社にあった手水鉢が福興宮に残されているとの情報が掲載されていた。


神社が建立された場所である

手水鉢
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台東庁 知本祠

2011-12-17 00:02:23 | 台東廳
鎮座日:昭和5年(1930年)2月11日  祭神:大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王  例祭日:11月24日  社格:社
鎮座地:台東郡卑南庄知本字地本      
現住所:台東県卑南郷知本村知本路3段13巷(知代天府本)


現在、この場所は知代天府本という廟になっている。終戦後、知本に住む日本人および原住民が整列し、「奉焼式」を執り行ない、神社の「奉焼」が行われた。檜で作られた神殿のため檜のにおいが辺り一面に充満したようである。その後、基壇や鳥居はどのように処分されたかは不明である。

地本のは台湾拓殖会社により台湾で初めて試みである内地人の山地移民村が出来たところでもある。移民は東北振興会の斡旋で行なわれ、キナ以外にも茶および野菜などの栽培が奨励された。

* キナ:キナはマラリア治療薬キニーネの原料である。熱帯で蚊を媒介に感染するマラリア対策に世界の列強がしのぎを削った。植民地支配した南方では多数の感染者や死亡者が出た。特にキナの樹皮からつくる薬キニーネの需要は大きかった。軍部の要請で京都帝国大学が「キナ」産業の一翼を担った。

 
神社本殿があった場所 
       
当時の神社の旧景(出展:毛利之俊「東台湾展望」)
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台北州 加羅山社

2011-12-10 09:43:09 | 台北州
鎮座日:大正7年(1918年)10月1日 祭神:天照皇大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王 例祭日:6月17日  社格:社
鎮座地:羅東郡蕃地太平山         
現住所:宣蘭県大同郷太平村太平山国家森林遊楽区(鎮安宮)

この標高1,500メートルの旧太平山に大正7年10月1日、営林所が中心になり加羅山の旧林場に加羅山社が鎮座し、台湾総督府の始政記念日である6月17日を例祭日とした。昭和3年、職員一同の計画により改築工事が執り行われ、昭和4年(1929年)11月3日の明治節を記念して遷座式が行なわれた。
 森林資源の枯渇に伴い、昭和12年3月に森林の伐採もタボー渓・三星山方面の原生林である新太平山に移った。これに伴い、役所・小学校・病院およびお寺も新太平山に移り、新たに昭和12年、新太平山に造営された。そして台湾檜の最上材を用いて神社は造営され、神社も太平山神社(第二代加羅山神社)とも呼ばれた。

加羅山は伽羅山または嘉羅山とも書かれた。旧太平山小学校の同窓会である太平山会事務局責任者、また台湾友の会の会長であり、この地で生まれ育った喜久さんによるとこの地はタイヤル族南澳蕃が「カリャサン」と呼んだことから「伽羅山」と名付けたのではないかとの推測をしておられる。また、旧太平山の渓流をカラサン渓と、その源流の山を加羅(カラサン)山と呼ばれていた。


鎮安宮。あいにくの雨の日であり、霧がかかっていた。もう一度、訪問したい場所である
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新竹州 竹東神社

2011-12-02 23:48:47 | 新竹州

鎮座日:昭和17年(1942年)10月20日
祭神:明治天皇、大國魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王
例祭日:10月28日  社格:無格社
鎮座地:竹東郡竹東街上公館畑48番地      
現住所:新竹県新東鎮中山里大林路2号(竹東高級中学)

竹東神社は現在の竹東高級中学の後方の山を背に東向きに建立された。
竹東高等中学正門入り口にいたご老人から唯一神社の遺跡が正門前の石段横の池の中に手水鉢が置かれていることを教えていただいた。校舎を新しく建て替えた際に唯一この水盤だけが残されたとのことであった。


竹東中学校


手水鉢




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