台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台北州 清瀧神社

2013-07-02 20:50:57 | 台北州

今月の「なるほど・ザ・台湾」は「清瀧(きよたき)神社 陽明公園の鳥居が語る一人の鉱業主」です。 

台北の北に位置する陽明公園の王陽明像から少し上がると小ぶりな鳥居があります。

これは、清瀧神社の鳥居であり、山本炭鉱(株)社長山本義信が昭和11(1936)年4月26日に建立したものです。山本氏は国民の健康増進のために登山が良いとし、大屯山、七星山等の登山基地として適当なこの地を選び、大正12(1923)年、公園を建設し、「羽衣園」と名付けました。そして、日本から造園家を呼び寄せ、造園に着手。そして、この公園に、相次ぐ炭鉱事故により、尊い生命を失う等によりお祓いをすることを目的として鎮座したのが清瀧神社でした。

今回のブログでは、この神社を知りえるきっかけや炭鉱者山本義信の社会的な業績を、また、最後には、山本義信の戦後のエピソードも紹介しています。是非ご覧ください。

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台北州 芝山巖神社

2012-07-16 08:50:36 | 台北州
昭和5年(1930年)鎮座
祭神:台湾教育に貢献した330人

芝山公園の102段の石段を登り詰めると、芝山巖神社が祭られていた場所があった。今は参道が残っているのみである。当時の神社遺跡はないが、102段の石段と境内の石段がここに神社が存在したと思わすことができる。現在、本殿があった場所は、「雨農閲覧室」となっている。
本殿があった石段の左側には、明治29年(1896年)に建立された学務官僚遭難碑があり、碑の裏側に当時の内閣総理大臣伊藤博文の書が刻まれていた。これは日本統治後まもなく、初代台湾総督の樺山資紀に対して統治政策のなかでも教育を重要視すべきとする伊沢修二の具申により日本から第一弾の6名の日本語教師が台湾に派遣され、芝山巖にあった国語傅習所で日本語および日本語教育が始まった。伊沢修二の日本帰国中の明治29年(1986年)元旦に6名の教師が台湾総督府で行われる予定であった祝賀会に参加する途中に抗日「土匪」に殺害された日本人に対する遭難碑である。碑の側面には殺害された6名の名(山口県華族 楫取道明、愛知県士族 関口長太郎、山口県士族 伊原順之助、群馬県平民 中島長吉、東京府平民 桂金太郎、熊本県平民 平井数馬)が刻み込まれている。更に、これとは別に真新しい六士先生之墓が多少離れたところに見ることができる。
そもそも芝山岩神社は昭和天皇の御大典記念事業として台湾教育会で検討されたものであり、昭和5年(1930年)に「無格社」として建立された。その後、神社への昇格が認められたようであるが時期は確定できていない。

* 雨農閲覧室:蒋介石の忠臣である載雨農のことで、戦後青島から南京まで飛行機で遭難している。この載雨農を記念した図書館である。


102段の石段

本殿のあった場所

学務官僚遭難碑

往時の神社
コメント (1)
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員山公学校校内神社

2012-05-23 18:13:43 | 台北州
員山公学校は宜蘭公学校員山分校として現在の員山国中(学校)の場所に明治45年に設立されたものである。昭和16年、台湾教育令の改正により、公小学校は全て国民学校に統一されたが、ゆうに100年以上の歴史を持つことになる。員山国中のホームページを見ても校史が記載されていないため、その後、員山国民学校はどのような推移を辿った不明である。

下記、校内神社は員山公学校時代のものと思われる。

員山国中住所:宜蘭縣員山郷温泉路92号


出典:宜蘭文献

員山国民中学

神社はこの辺りに建立されたのかもしれない
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台北州 礁渓公学校校内社

2012-04-14 15:44:33 | 台北州
               
昭和15年(1940年)10月7日鎮座
祭神:不明
現住所:宜蘭県礁渓郷礁渓路4段135号


礁渓公学校神社は現在の中学校の体育館傍に宜蘭神社社司藤崎和次郎斎主の下で昭和15年(1940年)10月17日、創立30周年記念事業の一環として鎮座祭が執り行われた。当日は松本校長の式辞、当地区の郡守の告辞そして来賓の祝辞があった。終了後は物故旧職員および児童の慰霊祭が行なわれた。
神社の前には楠木正成(楠公)銅像が建立されていた。

現在、日本統治時代の礁渓公学校は宜蘭公学校礁溪分校として明治43年に開校された。当時は、礁溪協天廟を仮の教室として使用して、地元の児童に教育がなされた。大正2年、新たに校舎が建てられ、大正5年には宜蘭公学校として独立し、礁渓公学校と改称された。
昭和16年4月、公学校を含む全島の小学校は国民学校と改称され、礁溪公学校も礁溪国民学校と改称された。同時に教室も20室、教員宿舎4棟と増築された。終戦後の1953年、現在の場所に校舎が移転され、1968年に礁溪国民小学となった。


<出典:宜蘭文献 50号>
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台北州 加羅山社

2011-12-10 09:43:09 | 台北州
鎮座日:大正7年(1918年)10月1日 祭神:天照皇大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王 例祭日:6月17日  社格:社
鎮座地:羅東郡蕃地太平山         
現住所:宣蘭県大同郷太平村太平山国家森林遊楽区(鎮安宮)

この標高1,500メートルの旧太平山に大正7年10月1日、営林所が中心になり加羅山の旧林場に加羅山社が鎮座し、台湾総督府の始政記念日である6月17日を例祭日とした。昭和3年、職員一同の計画により改築工事が執り行われ、昭和4年(1929年)11月3日の明治節を記念して遷座式が行なわれた。
 森林資源の枯渇に伴い、昭和12年3月に森林の伐採もタボー渓・三星山方面の原生林である新太平山に移った。これに伴い、役所・小学校・病院およびお寺も新太平山に移り、新たに昭和12年、新太平山に造営された。そして台湾檜の最上材を用いて神社は造営され、神社も太平山神社(第二代加羅山神社)とも呼ばれた。

加羅山は伽羅山または嘉羅山とも書かれた。旧太平山小学校の同窓会である太平山会事務局責任者、また台湾友の会の会長であり、この地で生まれ育った喜久さんによるとこの地はタイヤル族南澳蕃が「カリャサン」と呼んだことから「伽羅山」と名付けたのではないかとの推測をしておられる。また、旧太平山の渓流をカラサン渓と、その源流の山を加羅(カラサン)山と呼ばれていた。


鎮安宮。あいにくの雨の日であり、霧がかかっていた。もう一度、訪問したい場所である
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