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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台南州 (新営郡後壁庄)  烏樹林社

2010-01-30 21:40:31 | 台南州

神社はこの建物の奥にあった

烏樹林車駅である

東洋製糖株式会社の烏樹林製糖工場は明治43年に設立されたが、昭和2年に南靖製糖工場と共に明治製糖株式会社に売却した。750トンの精糖能力を持って生産が開始されたが1983年に製糖業の幕を下ろした。
この製糖会社にも構内神社が建立された。年代は不明であるが恐らく明治製糖に売却される前の東洋精糖時代に建立されたと思われる。場所はちょうど中山堂隣の旧招待所(入口には公差員工宿舎と書かれている)の裏辺りである。石燈籠の一部が残っているとの情報もあるが、残念ながら探しえることは出来ていない。

どなたかこの神社に関する情報を持っていましたら是非ご提供願います。
如果有有關這個神社的信息無論如何請提供的加

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台南州 (新豊郡関廟庄) 新豊社

2010-01-24 21:59:41 | 台南州

神社が建立された場所である

日本統治時代の關廟庄には当時神社がなく、敬神観念および国民精神の涵養のために神社建立が望ましいとの提議がなされ、当時の關廟小学校裏山に神社を造営することになった。 
昭和11年、国民精神の徹底と国民意識の強化を図るために一郡一神社の目標に基づき、台南州の2市11郡にても神社の建立が進んだ。既に新豊郡には昭和8年に建立された新豊社が廟關庄にあったが、神殿および境内も小規模であるために皇紀二千六百年を記念して予算10萬圓程度でこれを増改築し、新豊神社が建立された。

新豊社は現在の台湾県立關廟国民中学の場所に東南向けに建立され、神社は学校の左側の棟辺りにあった。

残念ながら、この神社の写真がありません。どなたかご提供願えれば幸いです。
我沒有這個神社的照片。如果是不是誰能提供幸運
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台中州 (能高郡蕃社川中島社) 川中島社祠

2010-01-23 00:45:33 | 台中州

神社が建立された場所

神社の旧景

霧社事件で生き残った蜂起蕃と称された282人は当時の北港渓にある川中島(現在の仁愛郷互助村清流)に強制移住させられた。しかしながら、警察の厳しい監視の下での新天地の生活は慣れぬ土地と気候で苦難の生活を強いられた。更に、昭和6年(1931年)に埔里能高郡役所での「帰順式」と偽って埔里に連れて行かれた内の23人が霧社事件で抗日行動に加わったとして警察当局によって殺害された経緯がある。川中島社祠はそのような時代背景の場所に皇民化運動も益々盛んになる昭和12年(1937年)に川中島社()に建立された神社である。

川中島社祠は清流を通り過ぎ、互助小学校右側の小道を梅畑の方向に上がるとすぐに梅林に入る左の道がある。小道の突き当たりにお墓がある。この辺りに神社本殿があった。「抗日霧社事件をめぐる人々」の著者である相掦によると、この場所には光復後、高光清の提案により川中島社祠に代わって「余生記念碑」が建てられたとある。
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萬華 豊川稲荷

2010-01-11 11:07:06 | 豊川稲荷

華西街夜市への入口

遊廓跡

豊川稲荷が建立された場所

当時の萬華花街の地図

阿猜嬤 懐舊生活館

 台湾において繁栄していた代表的な場所について、「一府、二鹿、三艋」という言い方をする。これは清代に栄えていた3つの都市を表し、「府」とは台南府のこと、「鹿」とは鹿港のこと、「艋」は艋舺のことを指す。艋舺は後には萬華とも書かれる。日本による統治政策が開始されると官公庁舎・道路・鉄道・港湾などが次々と建設された。これらの基盤産業の開発にいち早く商機を見出し、日本からの投資が増え、これに伴い日本からの労働者が大量に流入した。これらの労働者目当ての料亭や遊廓が内地人によって続々と建てられ、また芸妓や娼婦も日本から送り込まれた。そして、艋舺は一大花街の様相を呈するようになった。ちょうど下記写真(阿猜嬤 懐舊生活館による)に掲載されている場所が花街一帯が艋舺遊廓であった。
 正確には不明であるが領台直後の明治33年頃、萬華にある龍山寺内に豊川稲荷が祀られた。言うまでもなく、豊川稲荷は愛知県豊川市豊川町1番地にある曹洞宗の寺院を指し、「稲荷」と称するが神社ではない。本尊は千手観音。「稲荷」は鎮守として祀られる荼枳尼天(だきにてん)のことである。
 記録によると艋舺龍山寺に安置してあった豊川稲荷の分霊は明治35年4月17日に粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)に遷座した。場所的には現在の環河南路2段35巷前の道路辺りの真ん中であった。旧地図で言うと有明町四丁目(現在の華西街)から萬華検蕃事務所横の小道入って護岸堤防にに向かって行ってぶつかった所である。
 なお、艋舺の簡単な歴史を知ろうと思う方々は甘いデザートで有名な台北市萬華區華西街5号の阿猜嬤 懐舊生活館を尋ねるとよい。店内には萬華の古い写真が展示されている。

台北市にはもう一箇所豊川稲荷が祀られた場所がある。この紹介は別途ブログでおこなうことにした。
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南菜園 北白川宮妃殿下の歌碑

2010-01-08 21:42:27 | 北白川宮能久親王

北白川宮妃殿下の歌碑

南福宮

台北市南昌路2段2巷と南昌路の交差点に南昌公園がある。日本統治時代、この辺一帯は兒玉町とも呼ばれ、南菜園と呼ばれた第4代台湾総督兒玉源太郎の別荘であった。既に当時の建物はないが、この公園傍にある南福宮に「南菜園石碑遺跡」と書かれた木札が掲げられ、その下に石碑がある。この石碑に書かれている歌は北白川宮妃殿下のものである。まともには誰のどのような歌かは全く判読できないが、以前、東京台湾の会の元会長であった故武田實様から頂いた情報で次の歌であることがわかった。
  國のためたてしいさをは
    あしびきの
  やまよりたかく
    おもほゆるかな
          富子
富子妃殿下は明治34年10月27の台湾神社鎮座祭の折と、大正15年10月27日に再度台湾を訪れ、翌日の28日に台湾神社を参拝している。此の時は官幣中社となった台南神社への参拝を10月30日に行い、記念のお手植えを行っている。
問題は上記歌が何時・何処で歌われたものかである。台湾神社鎮座祭の時の献詠詩歌(けんえいしいか)は下記のとおりである。

  このしまのあらむかきりはかかやかむ
    名もたかさこの神のみいつは
  (この島のあらむ限りは輝かむ
      名も高砂の神のみいづは)

そうなると大正15年に訪問した時の歌かもしれない。今後の調査対象として考えて行きたい。また、歌碑横に歌の内容を紹介するよう働きかけたい。

アクセス:捷運(MRT)古亭站で降りて徒歩数分
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