台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台東庁 大麻里祠

2011-11-26 00:26:46 | Weblog

鎮座日:大正12年(1923年)12月22日
祭神:天照大神、豊受大神、明治天皇
例祭日:4月14日  社格:社
鎮座地:台東郡太麻里庄太麻里 現住所:台東県太麻里郷大王村---太麻里徳其里2之6の前

 地元のパイワン族ご老婦人によると神社は現在の太麻里徳其里2之6号付近にあり、1957年までは基壇と鳥居があったが、その2-3年後には全てが取り壊されて民家が建てられたとのこと。今はその民家も既に廃墟となっている。なお、お話を聞かせてくれたのは現在の名前を陳初玉さんと言い、日本統治時代は天野初子さんであった。


神社があった場所
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台南州 龍岩社

2011-11-18 23:05:22 | Weblog
鎮座日、祭神、例祭日:不明
現住所:雲林県褒忠郷龍岩村 

 田洋村長である章文旗さんの紹介で龍巖小学校校長の黄麗醫さんにお会いし、日本統治時代の様子を聞くことが出来た。また、その時頂いた鳥居の写真が下記に掲載している。現在の龍巖国小は昭和11年(1936年)1月に台南州虎尾郡龍巖尋常小学校として設立の許可が下り、同4月には日本人の子弟46名を対象にして、当時の1年生から6年生までの複式授業(一年起至六年複式教学)が行なわれた。終戦までには117名の卒業生を輩出している。2004年には創立70周年記念事業が行なわれ、日本統治時代に龍巖尋常小学校で学んだ卒業生も数多く参加したとのことであった。
 龍巖製糖所は昭和10年(1935年)に大日本製糖会社が現在の雲林県褒忠郷田洋村に建設した製糖工場であり、領台後の最後の圧搾量1,200トンをもつ製糖工場でもあった。龍岩社はこの龍巖工場の企業神社であった。神社は龍岩小学校のグランドの北側の臥龍山中腹に建立された。神社の姿を残す写真は唯一、龍巖小学校の「創校70周年 校慶特刊」に掲載されていた神社の鳥居のみであった。
 臥龍山の麓には「臥龍山」と刻まれた石碑があった。この石碑は現在、虎尾糖廠前の同心公園に遷座されている。裏には「昭和十年十月十八日命名 藤山雷太」と刻まれている。臥龍山の山の形が龍に似ているため、臥龍山と名付けられた。藤山雷太は大日本製糖会社の社長であった。


神社は後方の小山の山中にあった
 
神社の鳥居                  「臥龍山」と刻まれた石碑  
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高雄州 海豊産土社

2011-11-11 23:36:19 | Weblog

鎮座日:大正9年(1920)3月3日  祭神:天照皇大神、倉稲魂神、猿田彦命、大宮能賣命、安徳天皇、建禮門院、二位局、建御雷神、經津主神、鹽土神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王、大和武尊、外二柱  例祭日:3月3日  社格:社
鎮座地:屏東郡海豊546番地                            
現住所:屏東市海豊街---海豊街91巷20の前

海豊産土社があった所を尋ねていた時、偶然にこの土地に住む李清水さんに会うことができた。李さんは日本統治時代には小学校の教員をやっておられたとのことである。李清水さんの案内で海豊産土神社が建立された場所に行った。場所は海豊街91巷20の前の空地で、訪問時は何も無い雑木林であった。李清水さんによると、海豊街一体は台湾製糖株式会社阿緱製糖所の土地であり、海豊産土社は台湾製糖株式会社阿緱製糖所宿舎内に建立された企業神社であったという。

海豊産土社ほど祭神が多い神社は台湾にはなかった。何故これだけの祭神が祀られたのか、また祭神と台湾製糖会社阿緱製糖所の関係は何であるかが非常に興味のあるところである。この神社の祭神を大別すると、次の通りになる。
① 皇室の皇祖神としての天照大神
② 台湾の神社に祀られた標準的な大国魂命、大己貴命、少彦名命の三神一座と能久親王
③ 安徳天皇、建禮門院、二位局を祀る福岡県久留米水天宮系の祭神
④ 倉稲魂神、猿田彦命、大宮能賣命を祀る稲荷系の祭神
⑤ 鹽土神は鹽土老翁神(しおつちおきなのかみ)のことであり、漁業や製塩の技術を伝えた神としても有名である。また、海路を司ったとされており、出産は潮の干満に関係していることから、その満潮時の無事安産を祈って、潮路の神から安産守護神ともされている。鹽土神を祀る神社として宮城県釜石の塩竈神社や滋賀県伊香郡西荒井町の塩津神社がある。
⑥ 日本武尊が祀られている神社は台湾ではここ一社だけである。日本武尊を祀る神社として福井県敦賀市の気比神宮と滋賀県大津市の建部神社がある。これらの祭神から海豊産土社は滋賀県と福岡県で漁業または製塩に関係があった土地ではないかと想像される。


水田の奥が神社の鎮座した場所であった
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台北州(台北市西門町) 台北稲荷神社

2011-11-05 01:01:48 | 台北州

明治44年(1911年)6月25日鎮座
祭神:倉稲魂神
社格:郷社
現住所:台北市成都路10巷

MRT西門駅の真迎えに紅樓劇場と赤い垂れ幕が掛かった西門紅樓が目に付く。この西門紅樓は明治29年(1896年)にまず木造で建てられた西門市場を明治41年(1908年)に総督府の近藤十郎の設計によって赤いレンガで八角形と十字型の二階建ての様式建築に立て替えられたものである。その風貌により、八角堂とも呼ばれた。現在は国の第三級遺跡に指定されている。日本統治時代の新起街市場はかつての台北城西門の外側にあたる地域で、荒地だった門外に浅草のような日本人向け繁華街が建設され、娯楽施設として台北座や栄座が建てられた。
終戦後はダンスホールや「紅包場」と呼ばれる歌劇場が立ち並び、戦前の上海歌謡や香港の流行歌謡などが演奏され、大陸を懐かしむ人々が通っていた。1980年代には台北東部の新市街(東区)の発展により活気を奪われていた西門町は、1990年代後半以降、歩行者天国となり車の立ち入りが制限され、年配向けの繁華街から若者向けの繁華街への転換が進み現在に至っている。
台北稲荷神社はちょうどこの西門紅樓の右そばにあったが今はその面影を残すものは何一つないが、当時この市場は新起街市場と呼ばれ、明治43年(1910年)頃にこの敷地内に神社建立の計画がなされた。武蔵の国の穴守神社(現在の大田区羽田5丁目の穴守神社)の承認書をもらい、用材は全て無節の檜を用い、本殿・拝殿・社務所の3棟となり、境内の敷地400坪の神社が建立された。総工費の1万円は一般の寄付金として徴集された。明治44年(1911年)5月中旬に穴守稲荷神社として鎮座式が執り行なわる予定であったが、発起人側の事情で翌月の10日前後に延期となった。しかしながら、まじかになり神社の名称の変更が協議され、台北稲荷神社と改称し、6月25日に鎮座式を挙行することになった。
祭神は倉稲魂命一柱である。祭神の倉稲魂命は宇迦之御霊神と同神で、宇迦は食と同じ意味で食物の意味である。「稲に宿る神秘的な精霊」という意味で、五穀・食物を司る神とされる。

  
西門紅樓内の写真から

右の西門紅樓の手前の建物辺りに神社があった

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