不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

花蓮港庁 --- 日本アルミニウム(株)構内神社

2013-05-11 10:28:23 | 花蓮港廳

ゴールデンウェークを利用して、宜蘭→新竹→鹿港→台南→南投→桃園→台北→花蓮と急ぎ足で廻ってきました。実り多い旅行で、改めて調査内容は本ブログなどを利用して紹介いたします。

さて、今回は花蓮県の友人で色々調査のお世話を頂いている黄家栄さんの紹介で、花蓮県民考里華東15の台湾肥料公司花蓮工場を訪問。この場所は、日本統治時代の日本アルミニウム(株)花蓮工場で、生産能力4000トンを持つ工場として昭和16年頃より生産が開始された。

構内神社は工場長執務室のすぐ横に建立。神社の詳細は不明だが、昭和17年10月27日には祭典が行われているので、昭和15年~16年には鎮座したと思われる。

なお、日本アルミニウムは資本金6000万円で、昭和10年6月に創立された。本社を東京丸の内に置き、台湾に2工場(高雄および花蓮港)、国内では黒崎に工場を持っていた。

現在、この場所には事務所の復元がなされており、近い内は一般に開放される予定である。

いまだに残る神社の基壇

 

説明を受ける黄家栄さん(右端)

復元中の事務所(右奥に神社があった)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花蓮港庁 壽社

2011-10-07 22:23:58 | 花蓮港廳
鎮座日:昭和8年(1933年)10月21日  祭神:大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王 例祭日:10月22日  社格:社
鎮座地:花蓮郡壽庄壽                                 
現住所:花蓮県壽豊郷山邊三段(中山公園)

 アミ族、本島人および内地人共同で建立された壽神社は壽豊村の中山公園内にあった。公園前の説明碑によると、この地はタイヤル族に属するタイヤロ族が住んでいた場所である。その後、徐々にアミ族の狩猟の場所となった。当時の名前は「里鬧」と呼ばれ、タイヤル語では「叢林(林または森)」を意味し、鯉魚潭の南に位置するため「鯉魚尾」とも呼ばれた。大正6年(1917年)には疫病が発生したため、住民は恐れをなしゲンの良い「壽村」と名前を変えた。その後、「壽庄」となり、終戦後は農産物の豊かな土地であるため、「豊かな」と「壽庄」のそれぞれを合わせて「壽豊」とした。
 1980年代の初め頃に石燈籠、鳥居およびその他の神社関連施設が全て取り壊されたようである。現在、本殿があったところには孫文の銅像が立っている。説明碑の写真には大鳥居が写されている。鳥居の大きさからすると規模的には大きな神社であったように思われる。
 公園前の説明碑によると、昭和7年(1932年)に壽公学校の中島眞澄校長の提案により、第二監視区監督 古賀民助警部補、鹽糖会社花蓮港製糖所所長 松原徹、壽区役場区 長野口差次郎、地元の有志および各の頭目の協賛を得て神社の建設がされたとなっている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花蓮港庁 佐久間神社

2011-08-18 21:40:36 | 花蓮港廳
鎮座日:大正12年(1923年)12月8日  祭神:大己貴命、佐久間佐馬太  例祭日:1月28日  社格:無格社
鎮座地:花蓮郡蕃地タビト社                                             
現住所:花蓮県秀林郷富世村天路

佐久間神社は太魯閣国立公園の天祥に建立された。この地は以前タイヤル族のタビト(塔比多、Tapido)があったところである。タビトとはタイヤル語でシュロの木を意味している。現在、この場所は文天祥塑像となっており、1960年に台中から花蓮を結ぶ東西横断道路が開通したときに大理石で造られた「正気歌」の碑文建てられた。文天祥とは南宋の人間で、20歳のときに科挙を状元(首席の事)で合格し、のちに丞相になっている。蒙古軍が大挙して南宋を襲来したとき、文天祥は私財をなげうって兵を募り、蒙古軍に抵抗したが、最後は捕らえられ、牢獄に入れられ処刑された。「正気歌」は、文天祥が獄中にいるときに作られた歌である。現在は本殿への石段と石垣のみがわずかに残っている以外神社の遺跡はない。

台湾に建立された神社の中で唯一、佐久間神社だけが日本統治時代の総督を祀っている。これは佐久間総督が多発する原住民の大規模蜂起を掃討(そうとう)するために理蕃政策を実施し、偉大な成果をあげたためである。なお、台湾東部においては最後までタロコ(太魯閣)社が抵抗したようである。明治29年(1896年)の新城事件、明治39年(1906年)の威里事件を経て、佐久間総督の就任期間であった大正2年(1913年)の「太魯閣の戦役」においてはすさまじい討伐作戦が展開され、数多くのタイヤル族、アミ族と日本人が亡くなっている。


正気歌の碑文を背に立つ文天祥塑像


当時の神社。奥に本殿が見える
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花蓮港庁  (花蓮港庁花蓮港市) 花蓮港支局 松尾神社

2010-10-30 09:37:07 | 花蓮港廳
 
旧現在は外からその外観を見ることしかできない       当時の花蓮港支局であり、神社は絵左奥にあった



この酒工場も例外ではなく、工場内に松尾大社の祭神を祀る松尾神社が建立された。正確な情報がないが、遅くとも昭和5年前には造営されたようである。
終戦後、神社は取り壊され、日本民族意識を取り除かれ、「増産報国碑」に建て替えられたようである。1971年にはまだ社殿前の池と橋が残っていたが、今は何も神社の痕跡を示すものはない。
この場所を最後に訪問したのは既に5年前になる。現在は花蓮創意文化園区となっているようである。機会があればもう一度訪問したい場所である。

基隆中学校卒業の廣繁喜代彦さんの紹介で昭和18年(1943年)8月から8ヶ月間、花蓮港支局に勤務されていた林朔雄さんにお会いすることができ、上記の写真を頂いた。神社は正門を入ってすぐ左側にあったとのことである。写真から、鳥居を超えると神橋があるのが分かる。残念ながら本殿は見ることが出来ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花蓮港廳 (平野歸化259番地260番地277番地)高砂社

2010-04-10 01:01:00 | 花蓮港廳
  
奉献の文字が刻まれている  当時の参道            神社が建立された場所

高砂社は水源小学校そばの開山道堂に向かう道を登った花蓮港を一望に見渡すところにあった。現在、神社のあった所は開山道堂という廟になっている。開山道堂のご老婦人の案内で開山道堂左側の空地奥から神社の遺跡として残っている石燈籠二基の柱の部分を見ることが出来た。一基には「奉獻 昭和十八年○○」の文字を読み取ることが出来る。
石段も残っており、この石段を上りきると広場になっており、左右に一基ずつ石燈籠があり、「氏子中」「昭和十八年一月建立」と刻まれている。この広場からもう一つの石段があり、その上が本殿であったのであろう。残念ながら途中で石段は切れているため、それ以上の神社の原型を確認することができない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする