台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

新竹州 (桃園郡桃園街大樹林458番地) 豊満社

2010-11-25 21:44:04 | 新竹州

神社が建立された場所辺りである


大正13年(1924年)10月15日鎮座
祭神:大国主命、市杵島姫命

祭神である市杵島姫命からすると「水」に関係した地形にあったと想定していたが、全く場所が特定できない神社の一つであったが、中原大学建築研究所の李国玄さんからの情報で判明することが出来た。豊満社は当時の辨天池の中の小島にあった。日本統治時代の辨天池は洗濯、賽龍舟(ドラゴンボート競技)や漁業の場所であり、終戦後、観光池搪や公園として利用された。1978年に桃園国際空港を建設する際、大園郷の住人はこの地に移住させられた。その時に、この辨天池の埋め立てを行い、現在の国民住宅である陽明社や中学校が建設された。辨天池はちょうど現在の介壽路と建興街の間にあった。この辨天池の中には辨天島と大黒島があり、豊萬社は辨天島にあった。現在の位置関係で言うと神社が建立された場所は蒋経国の銅像のある辺りであった。
大正12年(1923年)に辨天島に観音佛祖と五穀大帝を祀る観音廟が建立された。豊満社の鎮座日は大正13年(1924年)であるため、それまでの観音廟を利用して神社の体裁を保った神社であったと想像される。

台湾の知人であるHankさんのブログ「神社残跡」にも紹介されている

http://tw.myblog.yahoo.com/hank1980-blog/article?mid=4755&prev=7256&next=693&l=f&fid=20
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北白川宮能久親王行程 基隆旧海関御舎営所

2010-11-20 08:33:19 | 北白川宮能久親王
 
記念碑                                 「仰皇猷」の文字が見える

記念碑案内書

現在も中正区中船路112巷沿いに記念碑が残されている。この記念碑は裏山が崩れた時に土砂に埋もれていたのを地元の有志が掘り起こし、新たに世に出したものだと古老から教えられた。入り口には記念碑の紹介が書かれている。
記念碑真上の山の壁には「仰皇猷」の文字を見ることが出来る。この文字が何を意味するのか調べてみたいと思っている。

◆北白川宮能久親王滞在期間:明治28年6月4日~6月10日
◆記念碑建立:昭和8年、基隆市聯合青年団が御遺跡保存の計画を立て、市民有志の賛助を得、居間の跡を記念碑を建立
◆碑面には「北白川宮能久親王御遺跡地」は伯爵二荒芳の書
◆記念碑の文は台北帝国大学総長弊原坦、書は基隆市聯合青年団長桑原政夫

*二荒芳:宇和島第9代藩主 伊達宗の九男。二荒芳之の養子となる。北白川宮能久親王第5王女 擴子と成婚

<記念碑の文>
明治二十八年領臺ノ役、北白川宮近衛師團ヲ率ヰテ墺底ニ上陸セラレ、六月三日ヲ以テ基隆ヲ攻メ、給フ、匪賊頑強、飛弾営ノ頭上ヲ掠ムルコト屢ナリシモ、薄暮遂ニ市街ヲ占領シテ、統領ノ衛門ニ入リ給イ、翌四日司令部ヲ海關樓上ニ移シ、駕ヲココニ駐メ給ヒテ九日ニ及ブ嗚呼宮ノ武勲赫々トシテ餘威ヲ萬世布ク、青年團員相謀リ石ニ勒シテ之レヲ不朽ニ傅フ
 昭和八年七月十五日
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台中州 (台中市台中1295番地1296番地) 台中稲荷社

2010-11-13 00:36:15 | 台中州
 
台中警察局第一分局大誠分駐所                 分駐所の裏で、この辺りに神社があったと思われる      

鎮座日:明治30年(1897年)9月  祭神:倉稲魂神  例祭日:6月15日  社格:社 
            
台中稲荷社は台湾における第2番目の神社として明治30年に常磐に建立されたようであるが、大正4年(1915年)に初音町に移築され、大正12年11月20日に建て替えられた。日本統治時代の初期に渡台した日本人(内地人)向けのご利益信仰として建立された最初の稲荷神社となる。
この神社の所在地を特定するのも困難を極めた。台中政府の戸籍課で調査を依頼したが判らず、職員の一人が日本統治時代の建物である「寶覚寺」に言ってみたらと提案してくれた。早速、「寶覚寺」を訪問するとお二人のご老婦人にお会いできた。台中に稲荷神社が無かったかお伺いしたところ、幼い頃によくこの神社の前を通ったとのことであった。
現在の場所は成功路と興中街のちょうど角の台中警察局第一分局大誠分駐所辺りである。当時この建物は派出所であり、神社はその横に南西向きにあった。近くに柳川があり、ご老婦人によると柳川沿いに並んだ料亭に勤める芸者さんがよく通りすがりに手を合わしていたと言う。
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台北州 台北第三高女校内社

2010-11-06 01:36:06 | 台北州

神社は突き当たりの建物の辺りにあった           明治30年から授業開始のチャイムとして使用された鐘

明治29年(1896年)、芝山嚴學堂は国語学校第一附屬学校と改称され、女子分教場が創立された。翌年には国語学校第四附属学校を設立し、日本人の女子だけが就学できた。明治31年(1898年)、女子分教場は国語学校第三附属学校と改称され、本科と手芸科が設置され台湾人の優秀な女子も学ぶことが出来た。明治35年(1902年)に国語学校第三附属学校は国語学校第二附属学校と改称し、台湾に於ける子女の教育の模範となった。その後、明治43年(1910年)に国語学校第二附属学校は国語学校附属女学校と改称され、艋舺公学校を借りて台湾女子教師の養成所となった。大正11年(1922年)には台北州立台北第三高等女学校と改称され三高女と呼ばれた。昭和12年(1937年)に上埤頭(現在の長安東路)の場所に移るとともに台北州土木課大倉三郎によって鉄筋コンクリートの建物が設計された。現在の中山女子高級中学の校舎はそのときのものである。
ご案内を頂いたのは黄校長先生と台北市立中山女子高級中学校友会理事長の郭碧蓮さんであり、郭碧蓮さんは今でも現役であり某企業の董事長で上海と台湾を往復しているようである。当事の記憶を思い出してもらい、校内神社が建立された場所までご案内を頂いた。神社は正面突き当たりの建物の所にあり、昭和15年(1940年)の皇紀二千六百年記念行事として造営された。当事の建物の位置関係でいうと講堂の前辺りになる。
毎朝、生徒が登校する際に拝んでいたとのことである。神社横には日本式庭園もあり、静かな安らぎの空間であったことであろう。
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