台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔 

2019-02-21 19:43:33 | 台湾協会

今月の台湾協会報に3回にわたり「鎮南山臨済護国禅寺」にまつわる記事を掲載いたします。最初は『鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔』です。なお、来月は『鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏』です。ご期待ください。

 MRT圓山駅を降りると臨済宗妙心寺派で、台北市の「市指定古蹟」に指定されている鎮南山臨済護国禅寺がある。2008年に建て替えられたが、そもそもは明治45(1912)年、設計は阿部権蔵が行い、高石組によって建立された。その木造入母屋造り様式には日本の伽藍建築を継承し、宋の禅寺様式を模している。鎮南山臨済護国禅寺と呼ばれた「鎮南山」とは、第4代台湾総督児玉源太郎が『鎮南山縁起』と題して詠んだ七言絶句「不是人間百尺臺 禪關僅傍碧山開 一聲幽磬何清絕 萬里鎮南呼快哉」に由来した。    

 明治32年12月、臨済宗妙心寺派は大阪府堺市龍興山南宗寺高僧であった梅山玄秀を派遣する。梅山は10人の雲水僧侶(修行僧)を引率して渡台し、当時の剣潭寺東房(持仏堂の一室、家事、食堂、接客及び諸寮の一室)を借り、持仏堂には奉持した観世音尊像を安置した。仏教の教えに深く帰依していた児玉は、内地人の坊さんがいるというので、ある日横澤秘書官を連れて訪ねてみると、粗衣粗飯から室のありさま、見るに忍びぬ惨澹たるものであった。そして玄秀和尚に「之は酷い。どうだ和尚、金が要れば遣さう。一箇月いくらあったよいか」に対して「一笠雙鞋の雲水托鉢の身には椀一個あれば沢山だ。謂れなくして喜捨を受ける訳に参らぬ」と答える。こんな禅問答が行われ、僅かな浄財を受けることで玄秀和尚は納得したという。この時から児玉と玄秀和尚の親密な関係が始まり、お互いウマが合うようになったのであろう。  

 自身が臨済宗信徒であった児玉は、ある日「どうだ寺を建てないか。俺が一肌脱いでやる」と言い出したが、和尚は「恥じるらくは島人に未だ一人の帰依者もない、玄秀薄福未だ閣下の誠意を享くるに堪えない」と断った。児玉には仏教の教えにより人心の安定を図るとともに、将来的には清国南部方面にも布教を進めようとする意図があった。その為の精舎の建立であった。そして台湾の富豪である林本源家から伽藍建立敷地として、圓山公園の西側に広大な土地が永代寄贈されるよう働きかけた。明治33年6月、精舎の建設が起工し、7月に当時の台北県山仔脚庄三八番地に、粗末ではあるが「圓山精舎」が完成した。玄秀和尚及びその門下はそれまでの剣潭寺からこの地に新しい布教の拠点として移居した。この時、第一の賓客として児玉源太郎が招かれ、落成の宴が催された。陶然と心地よい機嫌になったときに詠んだのが前述の詩である。そして同年11月に鎮南山臨済護国禅寺の公称許可を得て、清国福州に出張所を設けて布教が始まった。

 児玉は明治39年まで台湾総督を務めるが、明治33年に台湾総督のまま伊藤内閣で陸軍大臣を兼任した。そして日露戦争では満州軍総参謀長を務める。明治37年、陸軍大将に昇進した児玉は翌年12月29日に日露戦争の終結により台湾に凱旋した。翌年の元旦に台湾神社を参拝したのち、児玉は臨済護国禅寺を訪問し、長い間計画していた堂宇(伽藍)建立を梅山玄秀師に提案した。

 しかしながら、児玉は明治39年7月24日に東京で死去したため、梅山玄秀師は最大の理解者を失い、それまでの計画が水泡に帰してしまった。同年7月28日には盛大な追悼会が臨済護国禅寺で執り行われた。また、9月9日の忌明には大法要が行われ、この時、梅山玄秀師は改めて児玉大将の意思を継ぎ、臨済寺の再建に取り組む決意を示した。明治41年、第3回忌法要も終わり、荒井泰治と賀田金三郎の寄進により、工費3600円で楼門が出来上がり、庫裡(寺務所)書院は工費1万円余りで着手され、明治42年には本堂が2万余円で着手された。これに伴い、逓信大臣後藤新平(前台湾総督府民政長官)から多額の寄付があり、児玉家からも遺品が寄贈された。そして明治44年、本堂(大雄宝殿)が落成し、翌年の6月20日に入仏式が執り行われた。 

 臨済護国禅寺の後方の高台に萬霊塔がある。その萬霊塔前の広場に3つの碑がある。萬霊塔に向かって左には、2代目住職以降7人の歴代和尚(融邦大和尚、大耕大和尚、策堂大和尚、亮郷大和尚、朴山大和尚、鈍外大和尚、乾嶺大和尚)の名前が書かれた聯芳塔がある。中央には、この臨済護国禅寺を開山した梅山玄秀「開山得菴秀大和尚」の碑がある。右側には、鎮南山臨済護国禅寺の開基である児玉源太郎の碑があり、表側には戒名「開基大觀院殿藤園玄機大居士」、裏側には「明治卅九□七月□四日薨去 前台灣總督陸軍大將 伯爵兒玉源太郎藤園髮塔」と刻まれている。藤園とは児玉源太郎の号である。これらの碑がいつ建立されたかは不明であるが、聯芳塔の台座に「昭和十□年□月□日 □□乾嶺 樹之」の文字を見ることが出来る。乾嶺大和尚(高林玄宝)の在職期間が昭和7(1932)年4月~14年9月までなので、その期間中に建立されたことは間違いないが、これらの碑の由来を示す資料は見つかっていない。ましてや遺髮を埋葬したと考えられる髮塔が建立されたことすら、当時の報道には見当たらない。

萬霊塔前に並ぶ碑。右端が児玉源太郎藤園髮塔

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第2回 台湾の神社と歴史を巡るツアー 台湾北西部

2019-02-07 14:11:38 | 産経新聞 台湾神社ツアー

昨年の12月の「台湾の神社と歴史を巡るツアー」に引き続いて、産経新聞社主催の第2回のツアーが4/21から3日間の日程で企画されました。今回は、前回の北部編で訪問できなかった基隆神社訪問後、新竹および苗栗まで南下します。

今回も皆様と一緒に同行し、神社の魅力を一生懸命説明したいと思います。

詳細は本日の産経新聞朝刊または下記ウェブサイトを参照願います。

https://www.travelota.jp/page/tour/tour002.aspx?RT_CD=RT19&S_CD=01&GOODS_CD=20191JINJA-2

 

1日目 4月21日(日)

羽田空港発、台北・松山空港へ
○基隆神社
○基隆中学校校内神社 
○北白川宮能久親王記念碑等
★★講演会★★ 講師:金子展也

2日目 4月22日(月)
○角板山祠
○大渓社、大渓老街
○通宵神社 等

3日目 4月23日(火)
○新竹神社
○桃園神社 等 
松山空港発 羽田空港へ

 

 


 

 

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