台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社 その3 北斗神社

2011-04-22 23:09:06 | 台湾の神社跡を訪ねて
平成23年04月04日付の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社」です。今週はその3 北斗神社です。




北斗神社

 台湾中部における官営移民村は秋津村(昭和七年)をはじめとして豊里村、鹿島村、香取村、八重洲村および利国村が北斗郡に建設された。
 これら移民村の守護として造営された北斗神社は、現在の北斗高級家事商業職業学校にあった。終戦後しばらくは石灯籠が残ってゐたが、学校前に神社路といふ通りを整備した際にすべて取り壊されて土の下に埋められたやうである。幸ひ、その一部は中山路と光復路の交差点に残されてゐた。その他、同神社に奉納された狛犬が斗苑路一段一二〇号の奠安宮内の奥に安置されてゐる。
 この神社には神馬があった。この神馬が北斗を離れて遥か高雄県鳳山市の陸軍軍営学校内にあることが判明した。残念ながら、「北」の文字の廻りを七つの星が囲む神社の神紋は銅馬からは確認されてゐない。

北斗神社▼鎮座日=昭和十三年十月六日▼祭神=明治天皇、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十月六日▼社格=郷社▼社歴=昭和十九年八月六郷社列格▼鎮座地=台中州北斗郡北斗街北勢寮▼現住所=彰化県北斗鎮大道里文宛路十七


陸軍軍営学校内の神馬
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台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社 その2 鹿野村社

2011-04-15 22:49:50 | 台湾の神社跡を訪ねて
平成23年04月04日付の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社」です。今週はその2 鹿野村社です。


鹿野村社

 第一次世界大戦によって、国際的に砂糖の価格が値上がりするなか、大正四年、台東製糖株式会社は関山郡鹿野庄に移民村を設立した。サトウキビの苗を植ゑるために製糖会社は往復の旅費を出し、十一月から四月までの約六カ月間、東北地区の農家閑散期を利用する短期の移民を招聘したことから始まった。
 しかしながら、そもそも熱帯地域における農業経験がないうへ、度重なる台風の影響、疫病の発生、食料不足および交通の不便さなどにより移民村としての問題も浮き彫りになった。製糖会社向けのサトウキビ栽培だけでは農業経営は成り立たず、自給自足のために圳埤を開き、灌漑して水稲・陸稲を耕作した。安定した農業経営にはまだまだ長い道のりを乗り越えなければならず、郷里への哀愁がいまだ拭ひ去れない、そのやうな時代と精神的な守護への背景で造営されたのが鹿野村社であったのであらう。
 鹿野村社は龍田村五隣光栄路の昆慈堂の庭園に鎮座してゐたが、現在は基壇以外残ってゐない。なほ、この場所は第二代鹿野村社の場所であり、昭和六年に遷座式が執りおこなはれてゐる。

鹿野村社▼鎮座日=大正十年六月十五日▼祭神=大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=四月十五日、十月十五日▼社格=社▼鎮座地=台東庁関山郡鹿野庄鹿野村八五七番地▼現住所=台東県鹿野郷龍田村五隣光栄路(昆慈堂)


基壇だけが残る鹿野村社

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台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社 その1 吉野神社

2011-04-08 22:19:11 | 台湾の神社跡を訪ねて
平成23年04月04日付の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第七回 移民村の神社」です。今週はその1 吉野神社です。


 明治の終はりから終戦まで、台湾の各地(花蓮港庁、台東庁、台中州、台南州、高雄州)に移民村が建設された。農民の多くは主に四国・九州から新天地を求めての渡台であったが、遠くは北海道や新潟などのまったく気候や環境の異なる土地からの移民もゐた。これらの移民を苦しめたのはマラリアなどの風土病や毒蛇の脅威であった。
 今回はこれら移民村に守護神として造営された各地域の代表的な神社の遺跡を紹介する。


吉野神社

 台湾東部地区の開発を促進するため、官営移民村として明治四十三年にまづ吉野村が花蓮港庁に建設された。吉野村に続いて豊田村・林田村が建設されたが、いづれも入植後二年内に神社が造営されてゐる。
 現在、吉野神社の跡地には慶豊市場が建ってをり、建物の裏側に「拓地開村」の記念碑が残ってゐる。近所の御老人の話によると、記念碑横のクスノキは神社造営の際に植ゑられたものであり、終戦後、神社横に建てられた兵舎に勤める人が伐らうとしたところ鋸の刃が折れたとのことで、それ以来クスノキの伐採を禁止し、神木として扱ってゐるとのことであった。このやうな不思議な話はよく聞く。
 さらに記念碑のちゃうど裏側にある雑木林を入っていくと、「鎮座紀念」「明治四拾五年六月八日」と刻まれた石碑がある。また、神社の手水鉢が吉興四街の中華工商といふ建物の右手奥に残ってゐる。手水鉢には「水」の文字と、裏側には「昭和九年春季」の文字と奉納者の名前が刻まれてゐる。

吉野神社▼鎮座日=明治四十五年六月八日▼祭神=大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十月十八日▼社格=無格社▼鎮座地=花蓮港庁花蓮郡吉野庄字宮前▼現住所=花蓮県吉安郷慶豊村中山路三段四七三号


鎮座紀念碑


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台北州 (基隆市天神町156番地) 基隆天満宮社

2011-04-02 00:24:51 | 台北州
鎮座日:大正10年(1921年)12月25日  祭神:菅原道真  例祭日:8月25日  社格:社
鎮座地:基隆市天神町156番地                         
現住所:基隆市仁愛区劉銘傅路95巷6号(南靈宮)

仁二路から劉銘傅路に入り、そのまま登って行くと鄭成功を祀る南霊宮への標識が見えてくる。学問の神様とされる菅原道真を祀る基隆天満宮社は基隆市を一望に望む高台の上に基隆神社と向かい合うように建立された。この場所は基隆天満宮社が建立された場所であるが、第一代の天満宮は天神町に市営住宅が出来上がった大正10年(1921年)時に造営された。そして昭和9年(1934年)9月24日、高等小学校に向かって左側の山腹であるこの場所に移転して遷座式が執り行なわれた。

* 劉銘傅:1884年に清国の属領であったベトナムの支配権を巡り清仏戦争が勃発した。フランス艦隊が基隆と淡水に上陸して砲台を破壊し市街を攻撃、澎湖島を占領して台湾海峡を封鎖した際に、清国政府は劉銘傅を台湾に派遣し、福建省隷属から独立した台湾省を設立し、省長官である台湾巡撫(じゅんぶ)に就任した。劉銘傅は台湾の近代化と自立を図り、土地調査、新田開墾、殖産事業、鉄道、汽船、電灯、通信等を担当する各総局を設置して近代化に着手した。


第二代天満宮社が建立された場所
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