台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

映画「呉さんの包丁 呉桑的菜刀」

2013-07-20 18:07:04 | ビデオ・映画紹介

今回は、一般公開に先立って行われた、「呉さんの包丁 呉桑的菜刀」の試写会について紹介します。

 「雨が舞う~金瓜石残照」や「風を聴く~台湾・九份物語」で新たな台湾のドキュメンタリー分野を開拓した林雅行監督が2年間の時間をかけて作成された映画で、これまでの台湾を取り扱う映画内容とは一味異なる内容です。

林監督より「金門島で砲弾が包丁に変身する映画です」と言われ、最初は訳がわからず戸惑っていました。その後、試写会の案内書をもらい、説明を読むとこれまでほとんど知らなかった戦後(1949年10月)間もなく発生した国共内戦(毛沢東率いる共産軍と蒋介石の国民党軍の戦い)が、金門島を舞台にして行われたと知りました。その後、1958年8月23日(8.23)には対岸のアモイより共産軍(人民解放軍)による大規模な爆撃をなされ、国民軍もこれに応戦する事態に発展します。多くの人命が失われ、金門島の街は壊滅的な被害にあいます。パンフレットにも書かれている「毛沢東の面子vs蒋介石の意地」であったのかもしれません。

開戦からおよそ40日ほど経った頃に停戦は成されましたが、金門島への定期的な砲撃は、1979年の米中国交樹立まで、21年間の長きにわたり続くことになります。

そのような島で、共産軍が残した砲弾を材料に包丁の製造を始めた呉さんがいました。今やアモイから僅か船で30分のこの島へ、数多くの中国人が来るようになります。必ず観光客が立ち寄る呉さんのお店。包丁の値段で交渉する観光客と呉さん。「あなた方の砲弾で作成したものだから、材料費は請求しません。加工費だけ頂くのです」との応酬。呉さんはなかなかの商売人。

最後に、呉さんが語る将来の両岸関係。是非、観賞して呉さんの思いを聴いて頂きたいと思います。一般公開は8/24からであり、その1日前の8/23は金門島823砲戦55周年の日にあたるといいます。

テーマ音楽の作曲・演奏は彩愛玲(ハーピスト)さん。美しい海に囲まれた金門島にマッチした曲も見逃せません。

 

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台北州 清瀧神社

2013-07-02 20:50:57 | 台北州

今月の「なるほど・ザ・台湾」は「清瀧(きよたき)神社 陽明公園の鳥居が語る一人の鉱業主」です。 

台北の北に位置する陽明公園の王陽明像から少し上がると小ぶりな鳥居があります。

これは、清瀧神社の鳥居であり、山本炭鉱(株)社長山本義信が昭和11(1936)年4月26日に建立したものです。山本氏は国民の健康増進のために登山が良いとし、大屯山、七星山等の登山基地として適当なこの地を選び、大正12(1923)年、公園を建設し、「羽衣園」と名付けました。そして、日本から造園家を呼び寄せ、造園に着手。そして、この公園に、相次ぐ炭鉱事故により、尊い生命を失う等によりお祓いをすることを目的として鎮座したのが清瀧神社でした。

今回のブログでは、この神社を知りえるきっかけや炭鉱者山本義信の社会的な業績を、また、最後には、山本義信の戦後のエピソードも紹介しています。是非ご覧ください。

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