新年明けましておめでとうございます。
昨年はこのブログにアクセス頂き、有難うございました。これまでの取材での情報も少しずつ底をついてきましたが、今年も一年 毎週末内容の更新を目標に進めてゆく所存です。
どしどしコメントお願い致します。
今回は平成23年1月1日、神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第二回 忠烈祠になった神社」の内の「桃園神社」を紹介します。
なお、次回は「台湾護国神社」です。
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台湾の神社跡を訪ねて 第二回
忠烈祠になった神社 桃園神社
台湾に鎮座してゐた県社および郷社のうち、忠烈祠に取って代はった神社は十三社となる。今回はこのうち、桃園神社と台湾護国神社を紹介する。
桃園神社は郡民の浄財三十万円を投じて創建された。鎮座地は日本統治時代の新竹郡新竹街東北に位置する標高二百十二メートルの春日山(現在の虎頭山麓で、当時は無名山であり、奈良の春日山に似てゐるためこのやうに命名された)の中腹を切り開き、南向きに造営された。そして、昭和十三年(一九三八年)九月二十三日、台湾神社よりの御霊代を迎へ、鎮座祭が執りおこなはれた。
終戦後の神社 文化財として
時は流れ終戦後の一九四六年、桃園神社の建物は新竹県忠烈祠と改名され、台湾における英雄である鄭成功、劉永福そして丘逢甲の像と反清・抗日の殉国の烈士の位牌がおよび抗日運動で亡くなった人たちの位牌が奉られるやうになった。その後、一九四八年に桃園県忠烈祠と改名。しかしながら、時代の流れとともに建物の老朽化が進んだため、一九八六年二月から補修工事がおこなはれた。この結果、現在まで桃園神社はその優雅さを留めることができてゐる。
補修工事では論争があったが、結局、日本の神社は唐の建築の流れを汲むもので、貴重な文化財だといふ建築家の意見が通り、神社の原形を残して忠烈祠として保存することになった。管理事務所になってゐた元社務所は神社文化館となり、鳥居も復活、日台交流の場になってゐる。そして、現在は台湾の国家三級古蹟に指定されてゐる。
今なほ残る流造の本殿
石段を登ると、左右に三基づつの石灯籠があり、鳥居を越えて右に社務所、左に手水舎がある。中門の手前には神馬と一対の中国式獅子が残ってゐる。
参道を進み、石段を過ぎると他の神社遺跡にはない中門、廻廊が待ち受ける。さらに進むと拝殿があり、拝殿入口にはいまだに賽銭箱が残ってゐる。拝殿奥の本殿は優雅な伝統的流造をそのまま残し、今なほ訪問者を魅了するやうである。
桃園神社▼鎮座日=昭和十三年九月二十三日▼祭神=明治天皇、豊受大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十一月九日▼沿革=昭和二十年四月十二日郷社列格▼鎮座地=桃園郡桃園街大檜渓王侯坑▼現住所=桃園市成功路二〇〇号(忠烈祠)
完全な形で残る流造本殿
遺跡全貌
昨年はこのブログにアクセス頂き、有難うございました。これまでの取材での情報も少しずつ底をついてきましたが、今年も一年 毎週末内容の更新を目標に進めてゆく所存です。
どしどしコメントお願い致します。
今回は平成23年1月1日、神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第二回 忠烈祠になった神社」の内の「桃園神社」を紹介します。
なお、次回は「台湾護国神社」です。
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台湾の神社跡を訪ねて 第二回
忠烈祠になった神社 桃園神社
台湾に鎮座してゐた県社および郷社のうち、忠烈祠に取って代はった神社は十三社となる。今回はこのうち、桃園神社と台湾護国神社を紹介する。
桃園神社は郡民の浄財三十万円を投じて創建された。鎮座地は日本統治時代の新竹郡新竹街東北に位置する標高二百十二メートルの春日山(現在の虎頭山麓で、当時は無名山であり、奈良の春日山に似てゐるためこのやうに命名された)の中腹を切り開き、南向きに造営された。そして、昭和十三年(一九三八年)九月二十三日、台湾神社よりの御霊代を迎へ、鎮座祭が執りおこなはれた。
終戦後の神社 文化財として
時は流れ終戦後の一九四六年、桃園神社の建物は新竹県忠烈祠と改名され、台湾における英雄である鄭成功、劉永福そして丘逢甲の像と反清・抗日の殉国の烈士の位牌がおよび抗日運動で亡くなった人たちの位牌が奉られるやうになった。その後、一九四八年に桃園県忠烈祠と改名。しかしながら、時代の流れとともに建物の老朽化が進んだため、一九八六年二月から補修工事がおこなはれた。この結果、現在まで桃園神社はその優雅さを留めることができてゐる。
補修工事では論争があったが、結局、日本の神社は唐の建築の流れを汲むもので、貴重な文化財だといふ建築家の意見が通り、神社の原形を残して忠烈祠として保存することになった。管理事務所になってゐた元社務所は神社文化館となり、鳥居も復活、日台交流の場になってゐる。そして、現在は台湾の国家三級古蹟に指定されてゐる。
今なほ残る流造の本殿
石段を登ると、左右に三基づつの石灯籠があり、鳥居を越えて右に社務所、左に手水舎がある。中門の手前には神馬と一対の中国式獅子が残ってゐる。
参道を進み、石段を過ぎると他の神社遺跡にはない中門、廻廊が待ち受ける。さらに進むと拝殿があり、拝殿入口にはいまだに賽銭箱が残ってゐる。拝殿奥の本殿は優雅な伝統的流造をそのまま残し、今なほ訪問者を魅了するやうである。
桃園神社▼鎮座日=昭和十三年九月二十三日▼祭神=明治天皇、豊受大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十一月九日▼沿革=昭和二十年四月十二日郷社列格▼鎮座地=桃園郡桃園街大檜渓王侯坑▼現住所=桃園市成功路二〇〇号(忠烈祠)
完全な形で残る流造本殿
遺跡全貌