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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台湾の神社跡を訪ねて その3 忠烈祠になった神社  桃園神社

2010-12-31 00:26:27 | 台湾の神社跡を訪ねて
新年明けましておめでとうございます。
昨年はこのブログにアクセス頂き、有難うございました。これまでの取材での情報も少しずつ底をついてきましたが、今年も一年 毎週末内容の更新を目標に進めてゆく所存です。
どしどしコメントお願い致します。

今回は平成23年1月1日、神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第二回 忠烈祠になった神社」の内の「桃園神社」を紹介します。
なお、次回は「台湾護国神社」です。

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台湾の神社跡を訪ねて 第二回

忠烈祠になった神社 桃園神社

 台湾に鎮座してゐた県社および郷社のうち、忠烈祠に取って代はった神社は十三社となる。今回はこのうち、桃園神社と台湾護国神社を紹介する。
 桃園神社は郡民の浄財三十万円を投じて創建された。鎮座地は日本統治時代の新竹郡新竹街東北に位置する標高二百十二メートルの春日山(現在の虎頭山麓で、当時は無名山であり、奈良の春日山に似てゐるためこのやうに命名された)の中腹を切り開き、南向きに造営された。そして、昭和十三年(一九三八年)九月二十三日、台湾神社よりの御霊代を迎へ、鎮座祭が執りおこなはれた。

終戦後の神社 文化財として

 時は流れ終戦後の一九四六年、桃園神社の建物は新竹県忠烈祠と改名され、台湾における英雄である鄭成功、劉永福そして丘逢甲の像と反清・抗日の殉国の烈士の位牌がおよび抗日運動で亡くなった人たちの位牌が奉られるやうになった。その後、一九四八年に桃園県忠烈祠と改名。しかしながら、時代の流れとともに建物の老朽化が進んだため、一九八六年二月から補修工事がおこなはれた。この結果、現在まで桃園神社はその優雅さを留めることができてゐる。
 補修工事では論争があったが、結局、日本の神社は唐の建築の流れを汲むもので、貴重な文化財だといふ建築家の意見が通り、神社の原形を残して忠烈祠として保存することになった。管理事務所になってゐた元社務所は神社文化館となり、鳥居も復活、日台交流の場になってゐる。そして、現在は台湾の国家三級古蹟に指定されてゐる。

今なほ残る流造の本殿

 石段を登ると、左右に三基づつの石灯籠があり、鳥居を越えて右に社務所、左に手水舎がある。中門の手前には神馬と一対の中国式獅子が残ってゐる。
 参道を進み、石段を過ぎると他の神社遺跡にはない中門、廻廊が待ち受ける。さらに進むと拝殿があり、拝殿入口にはいまだに賽銭箱が残ってゐる。拝殿奥の本殿は優雅な伝統的流造をそのまま残し、今なほ訪問者を魅了するやうである。

桃園神社▼鎮座日=昭和十三年九月二十三日▼祭神=明治天皇、豊受大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十一月九日▼沿革=昭和二十年四月十二日郷社列格▼鎮座地=桃園郡桃園街大檜渓王侯坑▼現住所=桃園市成功路二〇〇号(忠烈祠)


完全な形で残る流造本殿



遺跡全貌


 
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台湾の神社跡を訪ねて その2 ホテルになった台湾総鎮守

2010-12-24 21:31:31 | 台湾の神社跡を訪ねて
台湾の神社跡を訪ねて

第一回 台湾神宮 ホテルになった台湾総鎮守

 台湾への空の窓口である桃園国際空港から高速道路を走ってゐると、台北市に入る手前の左手、剣潭山の麓に、周囲を圧倒するかのやうに朱色に彩られた十三階建ての建物が突如として見えてくる。これは圓山大飯店(グランドホテル)であり、また、昭和二十年八月十五日まで台湾神宮と呼ばれた官幣大社が創建された場所でもある。大東亜戦争の終了とともに新たに台湾を獲得し、渡台した中華民国軍により占領されて社殿が取り壊された境内には、台湾大飯店と称する国営ホテルが建設されたが、一九七三年、龍の彫刻を多用した中国建築のホテルに変貌し、蒋介石の夫人である宗美齢がオーナーとなった。

遷座の直前に新社殿が焼失
 明治三十四年(一九〇一)十月二十七日、総工費三十六余万円を投じ、剣潭山に官幣大社として鎮座した台湾神社は昭和十九年六月十七日、台湾で唯一の神宮号宣下がおこなはれ、台湾神宮と改称された。そして、これまでの大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王の他に天照皇大神が増祀された。
 新社殿は旧社殿と台湾護国神社の中間に位置した。明治橋の下を流れる基隆河から吹く風にのせて檜の香りが漂ふ中、真新しい社殿で神宮昇格奉告と遷御の式典をおこなふ予定の前日の昭和十九年十月二十三日夜、松山飛行場に着陸しようと南方から飛来してきた軍輸送機が誤って台湾神宮の南神門に墜落して爆発した。大廻廊および拝殿は猛火に包まれて炎上。僅かに本殿の一部のみが惨事を逃れた。この大惨事はまさに十カ月後の終戦を暗示する出来事であった。

現在に残る神社の遺跡
 台湾神社には三対の狛犬が奉納されてゐた。現在、圓山大飯店前庭に中国式唐獅子、MRT剣潭駅に向かふ中山北路沿ひに大型の狛犬が残り、そして昭和五年十二月二十八日に石塚台湾総督が奉納した狛犬(中国式獅子)がある。この狛犬は二二八和平公園内の馬祖を祀る福徳宮前に安置されてゐるものと思はれる。
 ホテル内のレストランに向かふ通路の真ん中にある水を吐く金色の龍(龍尾穴)は、かつて参拝人休憩所そばの池に置かれてゐた銅製のものである。
 また、花崗岩でできた鳥居の一部がいまなほ三峽清水祖師廟にある。廟本殿内の両側に高さ五メートルもある柱が各四本あるが、これらが台湾神社の鳥居の柱であらう。終戦後の一九四七年、祖師廟で三度目の修繕をおこなふとき、台湾神社で使用されてゐた鳥居を購入してゐる。鎮座時に建てられた木造鳥居は花崗岩鳥居に建て替へることになり、一基は明治四十四年十月、台北の高石組高石忠慥が台渡十年記念として奉納。もう一基は明治橋前派出所下にあり、大正三年十月二十八日、高雄の古賀組古賀三千人によってである。いづれも徳山産であった。
 台湾神社で使用された大太鼓も二つ残されてゐる。一つは萬華の龍山寺に保存されてゐるもので、台湾技術協会から奉納されてゐる。この太鼓の表面には「奉献 皇紀二千六百年記念 臺灣技術協会」や「大極上」と書かれてをり、大阪の吉田太鼓店で調製されたものである。もう一つは 仁和太鼓廠(新荘市中和路)に保管されてをり、本町会が奉納したもので、愛知県海部郡津島町の山本慶助によって調製された。
 変はったところでは献納砲があり、陸軍献納砲五門がいまだに国軍歴史文物館前に見ることができる。(金子展也)

台湾神宮▼鎮座日=明治三十四年十月二十七日▼祭神=大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王、天照皇大神▼例祭日=十月二十八日▼社格=官幣大社▼沿革=明治三十三年九月十八日官幣大社列格、昭和十九年六月十七日神宮号宣下▼鎮座地=台北市大宮町▼現住所=台北市中山北路四段一号


往時の社殿

現在の圓山大飯店


中山北路沿ひにある一対の狛犬

三峽清水祖師廟にある鳥居の柱

なお、次回は「忠烈祠になった神社」掲載します。
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台湾の神社跡を訪ねて その1

2010-12-14 22:24:48 | 台湾の神社跡を訪ねて
この度、神社新報社の神社新報に「台湾の神社跡を訪ねて」というタイトルで8回にわたって連載されることになり、第一回が12/13に掲載されました。今週は編集部の「台湾の神社跡を訪ねて 多く残っている海外神社遺構」と「台湾の神社の概略・終戦始末」を連載します。次回のアップでは「ホテルになった台湾総鎮守 台湾神宮」を掲載します。


「台湾の神社跡を訪ねて」連載にあたり 
多く残ってゐる海外の神社遺構

 戦前、海外には多くの神社が鎮座してゐた。明治以降、海外進出に伴ふ日本人の移動、開拓によって朝鮮(八十社、神祠九百六十九社)、中華民国(五十社)、満洲国(三百二社)、関東州(十二社)、台湾(六十八社、社・遙拝所百三十三社)、南洋諸島(二十七社)、樺太(百二十七社)及び東南アジアなど(タイ一社、シンガポール三社、インドネシア二社、フィリピン一社)の旧版図に造営された。その殆どは民意によって創建されたが、国家の意思で創建された神社もあり、後には神社規則が整備され、行政に組み込まれた。
 これらの海外神社には終戦直後から悲劇が相次いだ。南北朝鮮、台湾、満洲、中華民国、南樺太などでは神社への襲撃、略奪、放火などが起こり、朝鮮では終戦後八日間で百三十六件の被害が確認され、樺太では神職が殉職、朝鮮では斬殺・凌辱などが報告されてゐる。多くは公にされず消え去らうとしてゐる。「愛国無罪」で海外神社の終戦直後の悲劇を埋没させることは決して許されるものではない。
 神社新報は海外神社の跡地について、「蒋介石や李承晩から云へば、日本人の神社などは、日本帝国主義のシムボルにすぎないもので、これを抹殺しようと破壊しようと、それは当方の勝手だといふつもりなのであらう。
 そこには大きな誤認や誤解の問題もあるのだが、日本人の方にも誤解させるだけの過失があったのだし、いまここで面倒な弁護論だとか反論を試みるつもりはない。それに、台湾でも韓国でも神社を崇敬し、信仰してゐた日本人が、すべて強制帰国させられたのだから、かの地には神社が存続することができなくなってゐる。神社が消え失せて無くなるのも、残念ながら致し方のないことだとあきらめもしよう」「かってその土地を経営した日本の国民が、精神的にもっとも神聖なる信仰の場所として仰いだ神殿の跡地を、文化的史蹟としてでも、荒らされないやうに、冒涜されないやうに保存することは何でもあるまいと思はれる」と記してゐる(論説「台湾神宮の故地」、昭和三十四年十一月十四日付)。
 現在、その保存の真意は別としても、台湾では、旧「桃園神社」社殿の一群が文化財に指定されてゐるのをはじめ数多くの遺構が保存されるやうになってゐる。また、韓国でも、ハンセン病療養所「小鹿島病院」にあった小鹿島神社のコンクリート製本殿・拝殿が保存されてゐるほか、放り出されるやうな形で残されてゐる遺構も数多い。とくに台湾では、神社の社殿、施設の一部、鳥居、灯籠、狛犬、参道などが意外と多く残ってゐる。
       
 神社新報では、創刊二十周年を迎へた昭和四十一年、「韓国および台湾の旧海外神社の故地に記者を派して往時を追想し、そのゆかりの地の二十年後のありのままの姿を、カメラに収め」、二回に亙り報告した。
 今回、そのやうな取材を継承し、四百カ所の台湾の神社跡を中心に調査してゐる金子展也氏に、現在の台湾において神社の跡がどのやうになってゐるのか、象徴的な神社のいくつかを、「台湾の神社跡を訪ねて」と題して、八回に亙って、レポートしてもらふことにした。海外神社に関はった人々を思ひ起こす一助としたい。(編輯部)



台湾の神社の概略・終戦始末 金子展也

 明治二十八年(一八九五)四月十七日、日清講和条約が調印され、台湾および澎湖島の日本への割譲が決定した。これに伴ふ、移動・移民により、日本の歴史においてこれまで日本の地にしか造営されなかった神社が、新しく領土となった台湾で守護神・産土様として鎮座していく。
 それは、日本から持ち渡った分霊またはお札を祀るもので、庶民信仰である一般生活に結びついた稲荷神社や金刀比羅神社であった。また、新開拓地での事業の安全を願って造営された各種の企業構内神社や移民村内に建てられた神社でもあった。一方で台湾総督府が台湾神社を創建すると同時に各地で神社の創建が進められた。

【神社の概略】
 台湾総督文教局社会課によって昭和十八年(一九四三)三月に発行された「台湾に於ける神社及宗教」(昭和十七年十二月末現在)によると、台湾には日本統治時代の五十年間に二百一社の神社が造営されたことになってゐる。この資料を基に終戦直前の社格で見てみると官幣大社一、官幣中社一、国幣小社三、護国一、県社八、郷社二十二、無格社三十二、社百十六、摂末社十二、遙拝所五社となる。
 しかしながら、右記以外にも神社はありとあらゆる所に鎮座した。酒造工場、水力発電所、刑務所、油田鉱場、ハンセン病療養所や軍事施設などである。このやうな「施設」を総合すると三百八十社近くなる。原住民(当時は蕃社と呼ばれた)に建てられた神社は「祠」と呼ばれ、神社の規模を無視すると最終的に四百社程度になるのではないかと考へてゐる。これは、台湾に建てられた神社研究のこれまでの常識を覆すものである。今後とも調査を続けていくつもりである。
 それでは「台湾に於ける神社及宗教」に基づき台湾の神社の概略を見てみることにする。
①祭神=一部の特殊な祭神はあるが、北白川宮能久親王と開拓三神(大国魂命、大己貴命、少彦名命)を中心に庶民信仰の神々から皇室の皇祖神である天照大神まで、合計四十六柱(台湾護国神社および建功神社の祭神は除く)の神々が海を渡り、特定の必然性をもって新しい領土となった台湾の地に鎮座した。そして神々の鎮座と神社の造営は日本人の伝統的な信仰対象として祀られ、また同時に統治政策に大いに関はった。
②地域別=台北州三十三社、新竹州二十一社、台中州三十社、台南州四十一社、高雄州十九社、花蓮港庁二十二社、台東庁三十四社、そして澎湖庁一社となる。台南州の神社数が一番多いが、曾文神社と斗六神社の摂末社が計十一社含まれるためである。大東亜戦争の勃発により、昭和十六年頃より神社造営の制限が出てきたやうである。むしろ上述した通り社格の昇格が頻繁におこなはれた。この時期から終戦まで郷社への列格は十八社、国幣小社へは三社おこなはれ、敬神思想の徹底や国民精神の昂揚が図られた。
③神社造営の集中=神社造営は御大典(大正天皇および昭和天皇)記念事業として大正四年および昭和三年以降、皇民化運動として昭和十二年以降、そして皇紀二千六百年事業として昭和十五年以降にその造営に拍車がかけられた。
 一方、原住民(蕃社)内神社は昭和五年の新高郡霧社で起きた霧社事件を発端にして、神社(祠)の造営が加速されたことは余り知られてゐない。

【終戦始末】
 大東亜戦争の終結とともに、蒋介石率ゐる中華民国国民党政権下におかれ、台湾は「台湾省」となった。同時に、日本統治時代のすべての公営および民間企業から文化財に至るまで、そして神社まで接収された。
 終戦とともに、神社は資産も含めて建物とともに国民党に引き渡された。しかしながら、一部の蕃社神社では接収後の神社取り壊しを恐れて「奉焼式」がおこなはれた事実もある。日本人および原住民が神殿前に整列し、最後の参拝が執りおこなはれ、神社奉焼で社殿の檜の匂ひが一面に立ち込めたといふ。
 神社の大部分はその敷地面積の広さもあり、破壊される前に軍隊の宿営所に使用された場所が多いが、とくに日本統治時代のシンボルとされた神社を排除する意味からも神社の取り壊しはこの時期頃から激しくおこなはれた。一部なりとも残ってゐた遺跡の中には、昭和四十七年、日本が中華人民共和国と国交樹立した際に取り壊されたものもある。

【神社の現状】
 戦後六十五年経った現在、当時の神社はどのやうになったのであらうか。台湾における官幣、国幣、県社および郷社三十六社の内、約三〇%は忠烈祠となった。忠烈祠とはその名前からもわかるやうに、辛亥革命、抗日戦争や中共との戦ひで戦死した約三十三万人の兵士の霊を祀ってゐるところである。
 神社そのものが風光明媚な場所に造営されたこともあり、終戦以降、そのまま忠烈祠として使用された神社もあるが、大方は台湾独自の忠烈祠に建て替へられた。また、広大な境内はそのまま公共性の強い公園や学校などに使用されてゐるのが多い。それ以外は廟、涼亭、教会、お寺などに形を変へた。
 シリーズ「台湾の神社跡を訪ねて」では、
①ホテルになった台湾総鎮守(今回)
②忠烈祠になった神社
③廟になった神社
④学校の神社
⑤企業の神社
⑥教会になった神社
⑦移民村の神社
⑧基壇(基礎)のみ残った神社
――の八回に亙り、台湾の神社跡を紹介したい。まづ、第一回は、「台湾神宮」である。

かねこ・のぶや=昭和25年10月生まれ、北海道出身。昭和50年・小樽商科大学卒業後、日立ハイテクノロジーズ入社。平成13年から平成18年まで日立ハイテクトレーディング台北支店駐在。ブログ《http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan》

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台東廳 (関山郡池上庄新関園) 池上祠

2010-12-09 22:46:50 | 台東廳
 
玉蟾園入口                             神社のあった場所

池上郷一帯

鎮座日:昭和7年(1932年)12月20日  祭神:大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王例祭日:12月20日  社格:社
鎮座地:關山郡池上庄新開園
現住所:台東県池上郷錦園村新開園162号

池上祠は池上の田園を一望に見渡せる小高い丘にあった。現在この場所は玉蟾園という民宿センターになっている。ご主人の頼さんによると、約20数年前までは鳥居と2つの基壇があり、取り壊した際、それぞれの基壇から銅鏡と剣が一つずつ出てきたとのこと。残念ながら、今は神社の面影を残すものは何一つない。この玉蟾園は頼さんの父親が神社のあった場所は「福地(幸福をもたらす土地)」であるため、この場所も含めて2万坪の土地を購入したとのことであった。

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台南州 (北門郡佳里街佳里) 北門神社

2010-12-02 22:49:41 | 台南州

神社があった場所。現在の中山公園              玉垣の一部

佳里鎮延平路沿いにある佳里中山公園に北門神社はあった。当時の北門神社は佳里小学校の東側縦貫道路に面しており、毎年10月28日に北白川宮能久親王の偉大な功績を記念して例祭が執り行われた。
1974年、日本統治時代の名残を払拭するために取り壊され、1997年に台湾文学ならびに地方文献の保存に貢献した呉新榮の銅像が公園中央に建てられた。
北門神社の遺跡として残るのは六順街と六安街のT字路近くの竹やぶに埋もれている玉垣の一部だけであろう。
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