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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台南州 (嘉義郡蕃地ニヤウチヤ社) ニヤウチヤ祠

2010-09-23 18:46:04 | 台南州

この藁ぶきの休憩所の辺りに神社が建立された

先に紹介した阿里山郷に建立されたサビキ祠、タッパン祠およびトフヤ祠を参照願いたい。
今回は、ニヤウチヤ祠を紹介する。

「ニヤウチヤ」の起源はウチという者が初めてを建てて、ここで死亡したのでこの社()名が起こったと言われており、「ニヤ」とは死亡の意味である。

ニヤウチヤ村のお年寄りに阿里山郷里佳派出所横の道を登っていった高台のところに草葺の休憩所があり、ここが神社のあった場所であると教えて頂いた。本殿があったと思われる場所からはを一望に見渡すことが出来る高台であった。神社と特定することが出来る遺跡は何一つとして残されていないが、僅かな石垣と高く聳える樹木のみが神社の痕跡であると思われた。お年よりの話しによると、神社を取り壊した際、作業に携わった2名の人が高台から落ちて亡くなったという。このように本殿を取り壊す際は何らかの不思議な事が起こるようである。
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台南州 (虎尾郡古抗庄) 大湖底社

2010-09-18 01:19:47 | 台南州
 
神社の基壇の一部が残っている                 大湖底神社 昭和17年12月29日奉斎式と書かれている


この神社の紹介は台湾国立芸術大学の黄士娟助教授から入手したもので、当時の台湾政府が1958年~1959年に終戦後の宗教施設がどのようになっているかの調査表に基づいている。この調査表に書かれてある古坑郷華山村の華山小学校を訪問した。校庭内の記念碑によると本校の前身は崁頭厝公学校大湖底分校場として大正11年(1922年)創立された。その後、大湖底公学校として独立し、昭和16年(1941年)には大湖底国民学校と改称している。ちょうど神社の建立はこの後となり、「皇民化運動」の具体的な実行策の一つとして行なわれた。

現在の華山國小で神社の場所を伺うと、教導主任の黄仁甫さんが小学校裏の神社遺跡に案内してくれた。僅かに基壇の一部だけが山を背にして残っていた。
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台南州 (虎尾郡土庫庄) 土庫社

2010-09-11 08:28:56 | 台南州

神社はこの辺りあった小高い山の中腹に建立された。手前の建物は漢方薬局を営む元徳堂である

皇紀2600年記念事業として当時の建功山に小規模な神社が建立された。建功山と呼ばれたのはこの場所に忠魂碑のようなものがあったからだと思われる。
この建功山は終戦以降に神社は取り壊され、同時に建功山は平地に整地され今はない。建功山はちょうど国立土庫商工職業学校・ロータリーと元徳堂の辺りにあり、神社は元徳堂の辺りに位置していた。漢方薬局を営む元徳堂の陳子博さんの計らいで、当時の様子を知る方々を紹介していただき、土庫社は一基の鳥居と本殿があった規模の小さい神社であることがわかった。
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新竹州 (大渓郡蕃地ブトノカン社) ガオガン祠

2010-09-04 01:02:11 | 新竹州
 
神社はこの坂の突き当たりにあった               神社が建立された場所である

佐久間総督が計画した理蕃政策事業5ヶ年計画は明治42年(1909年)に1,540万円の国庫費を用い、具体策が策定され、翌年から開始された。まず新竹マリコワン、キジナおよびガオガンの各に対して隘有線の前線を前進させ、威嚇と武力による掃討作戦が行われた。まさに、ここが日本の新領地における原住民に対する最初の軍事作戦が展開された場所である。

ガオガン祠は三光小学校前の道を山際に登っていった高台に建立された。1960年代に蒋介石がこの地を訪問したときに部下に神社の取り壊しを命じたようである。現在、本殿があった場所には民家がある。僅かに本殿までの石段の面影が残っているが、ここに神社があったと思わせる遺跡はもうない。付近の方の案内で民家の家の中に残っている神社の礎石があると教えて頂いた。また、石段の参道があった所に神社の石燈籠と思われる石の一部が唯一の遺跡であるとのことであった。当時のガオガン祠の様子を近所のご老人にお聞きしたところ、最初の石段のそばには一対の石燈籠があり、上り詰めると手水舎と社務所がり、2つ目の石段のそばにも一対の石燈籠があった。最上段には檜で作られた本殿あり、このそばにも一対の石燈籠があった。神木として松の木もあったようであるが、神社の取り壊しと時を同じくして切り倒されたようである。
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