2002年10月、半屏山西南部の道路工事の際、偶然に洞窟の一部が現れた。2009年頃になり、第六燃料廠のものであることが初めてわかった。
太平洋戦争が始まった1941年、日本海軍は国内、朝鮮および台湾の3地点に計6ヵ所の石油精錬工場を建設した。台湾には3ヶ所の工場(新竹、新高、高雄)が建設され、第六燃料廠と呼ばれた。
1944年4月1日に高雄工場が稼働した。主な生産は飛行機用の気油、船舶用の重油、そして飛行機用の潤滑油であった。しかし、蒸留工場建設時に米軍の空襲によりそのほとんどの設備が破壊され、幾度となく生産が大幅に妨げられた。そのため、海軍は民間人を動員し、秘密裏に半屏山の西南にあたる山麓を開削し、製油設備を移転した。この開削工事は僅か3ヶ月程度で終了したといわれている。それだけ急を要したのであろう。開削された洞窟は3つあり、合計9個の坑道を有した。それぞれの洞窟は奥行き60m、高さ5m、幅6mにおよび、トラックが悠々通過できる規模であった。
戦後、第六燃料廠は中華民国海軍のものとなり、最終的には中国石油公司に継承された。
今回、日本人として初めて原油製造装置洞窟と酸素工場・工作機器洞窟に入ることができた。洞窟内部では当時のボイラーの台座、煙突などの跡を見ることができる。
半屏山地図
洞窟の位置
潤滑油製造装置洞窟と酸素・工作機器洞窟内部
洞窟入口