台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台湾の神社跡を訪ねて 第六回 教会になった神社 新城社

2011-03-25 20:55:26 | 台湾の神社跡を訪ねて

東北関東大震災で被害となくなられました方々のご冥福をお祈りいたします。

今週は平成23年03月07日付 の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第六回 教会になった神社 新城社」です。この連載もあと2回となりました。もう少しお付き合い願います。

新城社

 

 

タロコの悲劇 痛ましい交戦

 

 

 花蓮を含む東台湾における日本の統治政策が始まってまもなくの明治二十九年十二月、タロコ地区の監視をおこなってゐた花蓮港駐屯の日本軍隊の一人がタイヤル族であるセダッカの女性を暴行した。これに対してタイヤル族が憤慨し新城にあった兵舎を奇襲攻撃し、二十三人を殺害した。これが「新城事件」と言はれるものである。年が明けた一月には日本軍がタイヤル族に対して度重なる総攻撃を仕掛けたが、意外にも苦戦を強ひられ、退散もさることながら死亡者を多数出す結果となった。とくに山岳戦においては地の利を得てゐるタイヤル族の方が圧倒的に有利であった。
 明治三十九年七月三十一日、賀田金三郎の経営する賀田組は、樟脳製造事業のためタロコで樟を伐採してゐたが、タイヤル族やブノン族の聖域である狩猟地域まで侵入したために彼らは激しい怒りと不満を爆発させた。また、樟の伐採に彼らを労働力と使用してゐたが、その金銭問題も新たに悲惨な事件を引き起こす一因となった。
 この事件ではタイヤル族の十四社が蜂起し、タロコの監視にあたってゐた花蓮港庁長・大山十郎以下官憲および賀田組職員など二十五人が威里(ウェリー)製脳事業所で殺害された。これが「威里事件」と呼ばれるものである。この事件は台湾総督府に大きな打撃を与へた。そして、大正二年の「タロコ(太魯閣)の戦役」ではすさまじい討伐作戦が展開されることになった。

激戦地の神社 そして教会へ

 
 昭和十二年に新城社が造営されるが、このタイヤル族との痛ましい交戦があった場所である。大正三年、タロコ事件が収束したことにより、太魯閣招魂碑が造営された。これが昭和十二年十月、新城神社造営の基礎になったものである。
 新城社は、終戦後、本殿がすぐに取り壊された神社の一つである。そして一九五四年、この地にスイスの宣教師が布教に訪れ、教会を建てることになった。一九六四年に建造を開始、一九六六年には完成してゐる。教会全体はシダに覆はれてゐるが、教会そのものの形は「ノアの箱舟」を模して設計されてゐる。本殿はマリア像に置き換はってゐるが、幸ひにも、その他の遺跡は新城社の面影を残すものである。

現在に残る 神社の遺物

 
 新城社は新城郷新城公園のそばにあり、現在は天主教会花蓮教会となってゐる。新城社は花蓮県の中でも鳥居が完全な形で残ってゐる珍しい神社でもある。石灯籠も松の木とともに参道の両側に三基づつ残ってをり、本殿のあったところがマリア像でなければ一般の神社とまったく変はりがないため、神社と錯覚を起こしさうである。狛犬は計二対あり、本殿があった場所の狛犬は、主人を変へてマリア像をかたくなに守護してゐるやうに思はれる。
 この新城社遺跡を調査すると意外に多くの遺跡が残されてゐる。その一つは手水舎で、現在は彩色された涼亭となってゐるが、その造りからさう判断できる。そして、そこにあったであらう花崗岩の水盤は、何と天主堂の中にある。
 天主堂の中庭には石碑があり、「殉難將士 骨碑 陸軍大將從三位勳一等功二級 柴五郎」、そして背面には「○治廿九年十二月二十三○○」とある。この碑は大正元年、新城事件で亡くなった監視哨結城少尉および十三人の名前が刻まれてゐる。



マリア像に変はった本殿跡

天主堂前にある第二鳥居

涼亭となった手水舎

神社の旧景

マリア像を守護する一対の狛犬

新城社▼鎮座日=昭和十二年十月▼祭神=大国魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=不明▼鎮座地=花蓮港庁花蓮郡研海庄新城圓満寺西陣▼現住所=花蓮県新城郷博愛路六十二号

 

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台湾の神社跡を訪ねて 第五回 企業の神社 その4 橋子頭社

2011-03-18 21:54:09 | 台湾の神社跡を訪ねて

今週も先週に引き続いて平成23221日発行の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて」 第五回 企業の神社  その4の橋子頭社です。

橋子頭社

 橋子頭社は台湾製糖株式会社橋子頭工場に造営された。現在は中山堂が建ってをり、入口の石段脇に一対の狛犬が残ってゐる。石台には「橋子頭製糖所婦人会有志」と「昭和十年十一月三日」の文字がはっきりと読み取ることができる。

 橋子頭製糖芸術村アーテスト・イン・レジデンス・プログラムの境内復元プロジェクトにより、二〇〇五年十一月、新たに中山堂前に二基の石灯籠、社号碑、手水鉢が配置され、神社の様相が再現された。社号碑には「橋子頭社 昭和六年十一月一日」、水盤には「昭和六年拾壱月吉日」と刻まれてをり、歴史を物語るものであった。

橋子頭社▼鎮座日=昭和六年十一月二日▼祭神=天照皇大神、豊受大神、能久親王▼例祭日=十一月五日▼鎮座地=高雄州岡山郡楠梓庄橋子頭二六九番地▼高雄県橋頭郷橋南村糖廠路十七

 

 

橋子頭社の狛犬と灯籠

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台湾の神社跡を訪ねて 第五回 企業の神社 その3 三ガン(山かんむりに坎)店社

2011-03-11 19:12:37 | 台湾の神社跡を訪ねて

今週も先週に引き続いて平成23221日発行の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて」 第五回 企業の神社  その3の三崁店社です。

  台湾製糖崁式会社三崁店製糖所の前身は明治四十二年に操業を開始した怡記製糖株式会社であり、明治四十五年、合併により事業を継承した。

三崁店社

 

 三崁店社は国民精神涵養のため、氏子とする三崁店製糖所員一同で造営した企業神社である。

 現在、製糖工場の痕跡を残すものはないが、神社の跡はしっかりと保存状態よく残ってゐる。本殿に向かって両脇には石灯籠の基礎の部分が各七基、および石灯籠以外の石台がそれぞれ残ってゐた。参道の中間には鳥居の柱跡が見られる。また、本殿に向かって左側には水盤が残ってゐた。本殿の基壇がほぼ完全な形で残ってゐるのは台南県では三崁店社だけであらう。その意味でも保存の価値は高い。また、玉垣も不完全ながらひじょうによい状態で残されてをり、奉納した方々の名前が刻まれてゐた。

 神社と相撲は切っても切り離すことができないくらゐに重要である。この神社も例外ではなく、本殿右奥に土俵があった。祭典日はもちろん、各種記念日には奉納相撲が開催されてゐた。

三崁店社▼鎮座日=昭和六年五月二十日▼祭神=天照皇大神、豊受大神、能久親王▼例祭日=十月十日▼鎮座地=台南州新豊郡永康庄三 店三一三番地▼現住所=台南県永康市三民里

 

 

神苑全体を見渡せる三崁店社

 

 

  

 

 

 

 

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台湾の神社跡を訪ねて 第五回 企業の神社 總爺社  その2

2011-03-04 22:44:57 | 台湾の神社跡を訪ねて

今週は先週に引き続いて平成23221日に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて」 第五回 企業の神社  その2の總爺社です。

總爺社

 總爺社は明治製糖株式会社本社のある麻豆總爺製糖所の構内神社であった。

 現在の麻豆總爺糖廠の敷地内には当時の社長宅も保存されてをり、明治製糖株式会社が飛ぶ鳥も落す勢ひで隆盛を極めた歴史を垣間見ることができる。そのやうな製糖工場に会社の社運隆昌と従業員の安泰を祈願するために昭和五年に鎮座したのが總爺社であった。

 終戦後、神社は取り壊され、その跡地に製糖会社で働く社員の子弟のために、今の總爺国民小学の前身である台湾公司第十小学が建設された。その時、一対の狛犬だけが校庭の隅に放置されてゐたが、二〇〇二年に総爺小学の校長になった謝耀宗が校庭を美化するために、狛犬を事務室の階段前に移設したとのことである。

總爺社▼鎮座日=昭和五年十月三十一日▼祭神=天照皇大神、大国主命、大宜都比賣神▼例祭日=十一月二十三日▼鎮座地=台南州曾文郡麻豆街麻豆四二九番地▼現住所=台南県麻豆鎮南勢里總爺一〇四

總爺国民小学校庭内の狛犬

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