台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

海外神社研究会 樺太の神社

2011-07-29 20:59:48 | 海外神社研究会
先週、神奈川大学神社研究会では神社新報社の前田孝和氏を講師にお招きし、「樺太の神社の終戦顛末」というタイトルで講演をして頂きました。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれ、後に明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称したところである。日露戦争の結果、樺太南半が日本領有となり、地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の昭和22年(1942年)に、外地から内地へと編入された。昭和25年(1945年)当時の人口は約40万人で、住民の99%は日本人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市であった。

この江戸時代の樺太にも既に25社程度の神社が存在し、大部分は「弁天社」であったという。主に北海道からの移民が増えるにつれて新たに神社も建立されるようになり、終戦まで樺太に創建された神社の数は一般的に128社といわれているが、ロシア側の協力で地図上の神社(鳥居)マークを丹念に調べていくと256社にもなるようである。参考まで、樺太にも官幣大社樺太神社が明治44年8月22日に鎮座している。祭神は札幌神社(現在の北海道神宮)と同じ「開拓三神」であった。

8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。

終戦とともに各神社の御神体は奉焼されたが、引き上げが終わる昭和21年11月まで数社の神社では祭礼が行われたとの貴重な情報もあった。

来年には樺太の神社に関する本が神社新報社から出版されるとのことでした。
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関東基隆会

2011-07-23 08:28:47 | 湾生の会合
今週、半蔵門のグランドアークホテルで第15回「基隆会」が行われました。
台風6号の影響で天候が心配されましたが、当日は晴天に恵まれました。

当日は80数名の参加があり、また基隆生まれの台湾女性の集まりである「基隆会」からも9名の参加がありました。冒頭の挨拶で、世話人代表の渡辺さんから「台湾から送られた東北震災への義捐金が150億に達し、これは世界一である」とのコメントがありました。
また、災害のあった仙台にお住まいの3名も元気に出席され、歌に踊りに楽しい時間を過ごしました。最後に「基隆市歌」の斉唱でお開きとなりました。

来年は7月20日に行われます。



代表世話役人の渡辺さん

こんな踊りも出ました
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台南州 五間せき(がんだれに昔)神社

2011-07-12 21:03:41 | 台南州
鎮座日:大正5年(1916年)5月25日
祭神:天照皇大神、大己貴命、少彦名命大、大国魂命
例祭日:11月10日  社格:無格社
鎮座地:虎尾郡虎尾街                        
現住所雲林県虎尾鎮民主路---安慶国小横の民主8路60あたり

 大正9年(1920年)に虎尾渓にちなんで五間厝を虎尾(こび)に改めた。五間厝は5軒家の意味で当時5軒の家があったことによる。
 本殿の場所は現在の雲林縣虎尾鎮安慶小学校付近となっているが、具体的には安慶小学校の右側の路を入った民主路60号あたりであり、参道は校舎裏あたりまで伸びていたようである。


神社があった場所

当時の写真
コメント (4)
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台南州 (台南市南門町)台南神社

2011-07-08 10:20:26 | 台南州
鎮座日:大正12年(1923年)10月28日  
祭神:能久親王  
例祭日:10月28日  
社格:官幣中社  
社歴:大正14年10月31日官幣中社列格
鎮座地:台南市南門町  

 台湾神社と台南神社の2社のみが官幣神社として日本統治時代に建立された。台南神社が建立された場所は北白川宮能久親王の終焉の地であり、その北白川宮能久親王を祭神とする神社である。

 北白川宮能久親王は弘化4年(1847年)2月16日に伏見宮邦家親王の第9皇子として生をうけ、明治5年(1962年)3月に北白川宮家を相続している。一時、僧門に入るが、明治3年還俗して軍籍に身を置くようになった。プロシアにも留学し、兵学を学び、陸軍の近代化に尽くす人材となった。明治28年(1985年)に近衛師団長に補任され、近衛師団師団長北白川宮能久親王自ら、台湾掃討のために5月29日台湾北部に上陸した。抗日武装勢力と交戦しながら南下したが、当時の台湾に蔓延していたマラリア・赤痢およびコレラなどの疫病により明治28年(1985年)10月28日に病死されたとされているが抗日ゲリラに暗殺されたという説が台湾では一般的である。

 台南神社は現在の友愛路と忠義路2段の交差点そばの公園およびとなりの忠義小学校一帯を神苑として建立された。光復後、神社は取り壊されたが狛犬と神馬は台南市健康路1段 中山運動公園内の国民革命忠烈祠に移された。運動公園前には忠烈祠の大きな門があり、その入口には一対の狛犬が残っている。参道を進むと石段横には神馬(2009年9月の時点ではどこかに移されていた)が一対あり、忠烈祠の本殿入口にはこれまた愛嬌のあるブロンズで出来た狛犬が一対残っている。「吽形」で雌、1本の角があり口を閉じている。神社遺跡の調査の中で最初に見かけた角がある「吽形」であった。
 以前、忠義路沿いにある忠義小学校の裏から台南神社の神橋の一部が見つかり、この橋は「成功橋」として復元された。古い台南神社の写真にはこの橋の様子を見ることが出来る。同じ忠義小学校内にある社務所が現在修復中である。2009年9月には竣工することになっている。

この場所に神社が建立された
  
忠烈祠にある狛犬
  
成功橋と神馬

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