台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

海軍水上特攻隊 震洋八幡神社

2017-05-27 20:55:57 | 高雄州

2014年5月のブログ及び台湾協会会報で震洋神社の遺蹟について紹介した。その後の調査で、この神社名は「震洋八幡神社」であることが判明する。祭神は震洋特攻隊発祥の地である長崎県佐世保市の亀山八幡宮の分霊であり、亀山八幡宮は戦前まで軍港佐世保の鎮守神として海軍将兵の信仰を集めた。

詳細は神奈川大学の非文字資料研究ニューズレターNo.38号(7/末発行予定)に「台湾本島及び澎湖諸島の神社跡地等の調査」と題して記載しているので、参照願いたい。また、この中で、「澎湖西嶼の震洋格納庫跡と西嶼弾薬本庫跡」として、坂井久能さんが震洋隊の格納壕について記載している。初めて海外の取材が許された日本海軍の歴史遺蹟である。こちらも併せてご参照願いたい。 

今月の16日、高雄市左営に残る震洋神社跡地の調査研究を行っている高雄市旧城文化協会の郭吉清理事長と共に、第20震洋隊 薄隊長のご子息と面談する機会を得る。翌日は亀山八幡宮を訪問したが、残念ながら宮司さんにはお会いすることは出来なかった。

午後、佐世保市のセイルタワー及び相浦駐屯所の営内神社(大潟神社)訪問する。17日は川棚町の「特攻殉国の碑」と「魚雷発射試験場跡」のみを訪問し、小串郷駅から佐世保経由博多に向かい、一路東京に向かった。

 

1)亀山八幡宮

 

戦病戦死 忠魂碑

真ん中のプレートには「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大皇の辺にこそ死なめ かえりみはせし」と書かれている

招魂碑 

2)特攻殉国の碑

3)魚雷発射試験場跡

4)小串郷駅

案内板の説明

昭和19年、日々悪化する大東亜戦争を挽回すべく、日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀から小串に移し訓練を行われました。この時臨時に設けられたのが小串郷駅誕生の起源とされていますが、当時全国から志願した数万の若人が丸太組のホームに降り立ったといわれています。その中から特攻隊員の編成を行い、3500人有余の若い命が家郷に替えることなく無念の戦死を遂げられ、今日の特攻殉国の碑慰霊祭へと歴史は受け継がれています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする