台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台湾の神社跡を訪ねて 第五回 企業の神社 烏日社  

2011-02-26 00:13:55 | 台湾の神社跡を訪ねて

今週は平成23221日に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて」 第五回 企業の神社  その1の烏日社です。

 

 内地資本の本格的な投資は第四代総督・児玉源太郎並びに民政長官・後藤新平の時代におこなはれた。台湾総督府の強い誘致要請により三井財閥が大株主になり、台湾製糖株式会社が明治三十三年に創立された。

 その後、数多くの製糖会社が設立され、投資効率を上げるために本島人が経営する製糖会社を買収・合併し、その生産経営規模を拡大していった。さらに昭和二年の金融恐慌や昭和六年の満州事変を契機に大型合併がおこなはれ、製糖産業の寡占体制に拍車をかけた。

 最終的には台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、そして鹽水港製糖の四大会社となった。終戦後、それらはすべて中華民国に接収・合併され、台湾糖業公司となった。

 内地資本によって設立された工場内には殆どといってよいほど守護神として企業構内神社が造営された。今回はこれら製糖会社に造営された幾つかの神社遺跡を紹介する。

 

 

烏日社

 

 かつて大日本製糖株式会社烏日工場があった場所は、現在、台湾 酒烏日 酒廠といふビール工場となってゐる。そこに鎮座してゐた烏日社はすでに倉庫に形を変へてゐるらしいが、構内に本殿・鳥居・狛犬・石灯籠を配置した立派な神社であったとのことである。

 烏日駅近くに住む御老人(当時、収穫されたサトウキビを運ぶ機関車の運転手であった)の案内で、烏日駅近くの民家の脇に、残された石灯籠の一部が横たはってゐるのが判明した。灯籠の竿の部分には「奉獻 永井清次」「昭和十年十月二十一日建立」と刻まれてゐる。

 神社創建時は東洋製糖株式会社の構内であったが、その後、東洋製糖は大日本製糖株式会社と合併してゐる。企業の神社であるとともに烏日庄の庄神社でもあった。

烏日社▼鎮座日=昭和二年十月二十二日▼祭神=天照皇大神▼例祭日=十月三十一日▼鎮座地=台中州大屯郡烏日庄烏日一一二―一一三番地▼現住所=台中県烏日郷光華街一

 

烏日社の石灯籠

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台湾の神社跡を訪ねて 第四回 学校の神社  豊原神社

2011-02-18 09:05:11 | 台湾の神社跡を訪ねて

今回は2/7 神社新報に掲載されたシリーズの第4回 「学校になった神社 その2」の豊原神社です。

豊原神社


 豊原神社は昭和九年二月、豊原郡において宗藤郡守、青柳・武山両課長が中心となり、郡内五街庄長およびその他の有力者の参集を求め、皇太子殿下(現在の天皇陛下)御誕生記念事業として造営することが協議された。その結果、昭和九年から十年にかけての継続事業として造営がおこなはれ、経費は二万五千円、造営地境内は豊原営林所北側の高原一帯、約五千余坪となった。


 変へられた奉納の記録
 神社が造営された台中豊原市南陽路には現在、南陽国小(小学校)がある。校庭奥のグラウンド場に近寄ると、四基の石灯籠が蒋介石の銅像を取り巻くかのやうにほぼ完全な形で残ってゐた。残念ながら当時の歴史を示す文字は完全に消されて見ることができない。
 記録によれば昭和十五年十一月に、紀元二千六百年を記念して台中州豊原郡専売品小売人組合が豊原神社へ石灯籠一対を献納してゐる。ひょっとしたら、この石灯籠かもしれない。
 豊原駅前の中正路沿ひを歩いていくと、商店街の間にうっかりすると見落とす程度の福徳祠への入口がある。この福徳祠には四基の石灯籠と一対の狛犬が安置されてゐる。石灯籠には奉献者の名前(張景順と黄老全)と民国三十五年の奉納日が刻まれてゐる。従って、終戦(昭和二十年=民国三十四年)後の奉献となるが、良く見ると○○十三年三月○日の文字が浮かび上がってくる。昭和十三年三月となると豊原神社が鎮座した後の日付であるため、間違ひなく豊原神社の遺跡であると断定ができる。問題は一対の狛犬の方である。この台座にも民国三十五年○○月○○日と刻まれてゐる。しかし石灯籠の例からすると、この狛犬が奉納された年月日も、福徳祠に奉納された年月日に改竄されたと考へて良いであらう。


 御子息から貴重な写真
 日本による統治が終はった後も、日本で豊原の地域会および豊原小学校同窓会の「ころとん会」の世話役をやってをられる池田玲子さんの紹介で、当時の豊原神社神職の御子息と連絡を取ることができ、豊原神社の貴重な写真を送っていただいた。写真から檜の鳥居が確認でき、神紋が桐であったことがわかる。
 なほ、一説によると「ころとん」と呼ばれた瓢箪の形をした小高い山があったため、豊原は葫蘆 と呼ばれたといふ。この地で生産された米はころとん米と称された。

当時の神社の旧景


校庭の石灯籠。奥には蒋介石の銅像

豊原神社▼鎮座日=昭和十一年三月二十七日鎮座▼祭神=天照皇大神、大國魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十月十七日▼沿革=昭和十九年五月十日郷社列格▼鎮座地=豊原郡豊原街下南抗▼現住所=台中県豊原市南陽路四四〇号

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台湾の神社跡を訪ねて 第四回 学校の神社  東港神社

2011-02-11 20:23:25 | 台湾の神社跡を訪ねて

今回は、2月7日発行の神社新報に掲載された「台湾の神社跡を訪ねて 第四回 学校の神社 」です。なお、次回は「学校の神社 豊原神社」です。

東港神社


 高雄州東港郡下には、東港神社が鎮座する以前に台湾製糖株式会社東港製糖所内の構内神社があったやうであるが、東港郡としての神社はなかった。そこで、国民精神作興に関する詔書の渙発から十周年であった昭和八年、神社造営に向けての具体的な活動が進んだ。竣功まで二年間かかった東港神社は昭和十年十月十八日に鎮座祭を執りおこなった。時局の進展に伴ひ戦勝および国威宣揚武運長久の祈願が多くなり、一般郡民の参拝が急増した。そして昭和十七年十月三十一日、郷社に列格した。
 当時の記録から、神社には正殿、幣殿、拝殿のほか社務所、三基の鳥居、神橋、一対の狛犬、六対の石灯籠、一対の常夜灯、手水舎および記念碑があった。


 本殿の跡に建つ孔子祠


 現在この地には海濱国小(小学校)が建ってをり、その沿革によると一九六二年に神社の敷地に小学校が建設されてゐる。そしてちゃうど日本が中国と正式に国交を樹立する頃、一九七三から一九七四年にかけて徐々に拝殿や鳥居などが排除された。さらに一九七五年、本殿のあったところに孔子祠が建てられた。
 参道の入口であったと思はれる所には、小さな神橋の一部を見ることができる。バスケットボールコートのそばにはさらに四基の石灯籠が残ってをり「昭和十一年十二月」の文字が読める。近くの木の下には「一金壹千圓也 台湾製糖株式会社」「一金貳千三百圓也 蔡朝取 蔡糞」「一金壹千圓也 李開山」などの字が刻まれた記念碑があり、神社造営にあたっては、これらの企業や豪富からの寄附が多かったやうである。
 孔子祠の周りにも六基の石灯籠が残ってゐる。孔子祠と石灯籠とに違和感はなく、むしろ一体感を感じさせる。

旧景(出典・高雄州要覧)


孔子祠となった神社本殿

東港神社▼鎮座日=昭和十年十月十八日▼祭神=天照皇大神、大國魂命、大己貴命、少彦名命、能久親王▼例祭日=十一月十日▼沿革=昭和十七年十月三十一日郷社列格▼鎮座地=東港郡東港街東港▼現住所=屏東県東港鎮豊漁里豊漁街三十四之二号

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新竹州 (竹南郡竹南街) 竹南神社

2011-02-04 22:58:21 | 新竹州

鎮座日:昭和15年(1940年)127日  祭神:能久親王、豐受大神、大國魂命 例祭日:1020日  社格:無格社

鎮座地:竹南郡竹南街                             

現住所:苗栗県竹南鎮大営路215号(竹南鎮衛生所)

 

 当時竹南郡には神社が無く、地方住民の敬神思想涵養をせしむる目的と皇紀二千六百年記念行事として竹南および頭分の2庄に当時の内地では村社格の神社を建立することになった。そして、昭和14年(1939年)1月、造営費として4万円が予算化され、翌年の12月7日に竹南神社が鎮座した。

  鎮座祭に先立って新竹神社より御霊代が奉迎され、鎮座後の余興は8-9日に渡って武道試合・舞踊・神輿・山車・相撲・庭球試合・仮装行列・大弓・野球試合・馬術・生花展覧会などが行われた。

 現在の竹南衛生所に竹南神社はあった。2008年頃までは衛生所近くの民家に石燈籠の傘の部分が残っていたというが、残念ながら神社の遺跡を示すものは何も残っていない。

 

竹南鎮衛生所であり、ここに神社が建立された

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