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▲ニュルンベルク裁判をめぐるいくつかの本
ニュルンベルク裁判をめぐるいくつかの本 その1-1
ニュルンベルク裁判をめぐるいくつかの本
▲ニュルンベルク裁判をめぐるいくつかの本
左から
1 『アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』 片岡啓治訳 1972 サイマル出版会
2 アンネッテ・ヴァインケ 板橋拓己訳 『ニュルンベルク裁判』2015 中央公論社
3 『ニュルンベルク裁判記録』1947 時事通信社
4 レオン・ゴールデンゾーン 小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー』上・下 2005 河出書房新社
▲レオン・ゴールデンゾーンの横顔 カバー裏の紹介文より
▲カバー裏の本の解説者序文より
▲ 『ニュルンベルク・インタビュー』上巻目次 2005 河出書房新社
▲『ニュルンベルク・インタビュー』下巻 目次 2005 河出書房新社
5 ジョセフ・バーシコ/白幡憲之訳 『ニュルンベルク軍事裁判』上・下 1996・2003 原書房
▲ 『ニュルンベルク軍事裁判』上巻 目次
▲『ニュルンベルク軍事裁判』下巻 目次
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それは四半世紀近くも前のこと。
25年近く前のことになってしまったのだが、1995年の阪神・淡路大震災の日と同じ日の出来事だった。
新聞には、いつ、記事になったのか思い出せないのだが、文藝春秋で発刊していた雑誌『マルコポーロ』が、ユダヤ人虐殺に関わる記事について、ある団体から抗議を受け、雑誌を回収した上、廃刊にまで追い込まれてしまった事件のことである。
マルコポーロの記事に異論や、疑義があれば、その反論や指摘を掲載し、また著者や、雑誌の編集者に、反論の意志があれば、堂々と論点を整理した上で、論戦を繰り広げて欲しかった。しかし、1995年1月17日、未曾有の大震災の陰で、なぜ廃刊に至ったのか、ほとんど記事にはならず、また、表現の自由をめぐって生産的な論争もなく、大手メディアからは消えた。
これに対して、雑誌『週刊金曜日』は、論者に誌面を提供して、論争を繰り広げたのだが、ささいなことなのか、根本的なことなのかはわからないが、論者と雑誌との間で、裁判にまで発展したのである。『週刊金曜日』側からの論者の総括、裁判の経過などは、
『ジャーナリズムと歴史認識』1999年 凱風社 にあるので、そちらを参照されたい。
また、論争・裁判での相手となった木村愛二の本は
木村愛二 『アウシュヴィッツの争点』1995 リベルタ出版
木村愛二 『ヒトラー・ホロコースト神話検証』2006 木村書店
である。
また、論争のきっかけを作った『マルコポーロ』に論考を寄せた、西岡昌紀には、
西岡昌紀 『アウシュヴィッツ 「ガス室」の真実』1997 日新報道
がある。
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廃刊になった『マルコポーロ』の内容がわからず、1995年以降は雑誌を探していたのだが、入手しそこねて、この年は敗戦後50年の年であったので、「ショアー」の映画公開や、「戦争の記憶」をめぐる問題、「オーラル・ヒストリー」などの問題に関心が移っていた。
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しかし、2001年の9月11日に起きた、アメリカ・ニューヨーク・センタービルの崩壊は、私の、ものごとや歴史・事件に対するものの見方を根底的に変える出来事になってしまったのである。
長い間、この事件について、インターネットやブログ、雑誌記事、書籍などを読んだ末に自分なりに一定の結論が出てきたのだ。この巨大な出来事は、「自作・自演の可能性が、限りなくある」という判断である。
このブログでは、2001年のアメリカ・ニューヨーク・センタービルの崩壊については、何回か記事にして、本を紹介したことがあり、そちらを参照していただいて、そこに掲げている本の内容を自分で読んだ上で判断していただきたい。
さて、2001年末から2003年にかけ、見つけ次第、9.11事件に関する記事をインターネットで探しているうち、その頃には、1995年には見つけることの出来なかったマルコポーロの廃刊に関する記事が見つかるようになったのである。西岡昌紀の『マルコポーロ』誌発表の「戦後最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった」の記事本文もどこかのブログ記事で読んだのである。
2001年~2010年までは現役時代の仕事があり、「ホロコースト問題」は、背景に退いていた。
戦後日本占領史の中の大きな事件、下山・三鷹・松川事件の私なりの粗雑な探索もまだまだしたいのだが、資料代がままならず、500円コイン程度でお手軽にできる資料探索も尽きてきたようなので、以前から気になっていた、「帝国・帝国主義の奥の院・寡頭制・究極のプロパガンダ」などに関心の軸が移りつつある。
さて、それはなぜだろうか。
『週刊金曜日』と木村愛二・西岡昌紀らの論争を遠くから観戦していると、また、その後の世界の歴史の経過とともに、ますます、世界の歴史的大事件というものは、陰謀・術策に充ち満ちた出来事が、主体となっているのではという疑念が出てきたのである。
歴史のほんとうとされていることはほんとうか?
年表にある、史実として記載してある事実は、ほんとうか?
木村愛二の著作を読んでいたとき、アウシュヴィッツ収容所の初代所長ルドルフ・ヘスの「告白遺録」について、木村愛二は、彼の著書で、サイマル出版会から発行された、片岡啓治訳の『アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』 (1972年) には、「逮捕後に尋問を受ける箇所に、
「私をなぐって得たもの」
という英訳本の記述が欠けているのを指摘していた。
逃亡していたルドルフ・ヘスを1946年3月11日に逮捕したイギリス軍はヘスを殴り(拷問)を行い尋問していたという重要な部分を削除していると指摘している。
この点について、木村愛二と論争していた金子マーチンは、「「歴史修正主義者」へのレクイエム」という論考(『ジャーナリズムと歴史認識』1999年 凱風社収録)で、ドイツ語版原書のその箇所は
「私の尋問で得られた証拠は殴打によって実現した。調書に何が書かれたのか、わたしは知らないが、それでもそれに署名をした」 (『ジャーナリズムと歴史認識』123頁)
と書かれているとのことだ。
ということは、
ブログ主がこの文章を我流に強調してみると
「私の「告白遺録」は拷問により書かされたものであり、書かれたものは、私が真に認めたものではなく、私が(拷問により)署名しただけだ」 と言っているわけだ。
ヘスの、『告白録』は 最後の抵抗・抗議の文としても読んでみる必要があるかも知れない。
独文原書も、英訳本も私の手元にないので、このことについては、木村愛二と、金子マーチンの論争について、その真相を語ることはできないが、何か、日本語になっているもので、手がかりがないものかと探していたところ、下記の本
レオン・ゴールデンゾーン 小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー』上・下 2005 河出書房新社
が見つかった。
ここに、この本の下巻に、逮捕され、収容所内にいた幹部について、裁判での最終告発前にドイツの幹部に対する、精神科医レオン・ゴールデンゾーンが質問したヘスとの対話が記録されている。前任者だった収容所の心理分析官から言われたことが記されている。
それには
1946年4月11日の項目にある。(1946年3月11日にヘスは逮捕されているので、ちょうど一月後のことである。)
今日は何を考えているのか、(精神科医レオン・ゴールデンゾーン)たずねた。
こう答えた。
「特に何も考えていなかった。収容所の心理分析官であるドクター・ギルバートから、自分の幼少期について、短い自伝を書くようにと言われ、そうしているところだ。」
彼のかたわらに、たったいままで、鉛筆で書いていた数枚の紙が置いてあった。(『ニュルンベルク・インタビュー』下 2005 河出書房新社 231頁)
おそらく、ルドルフ・ヘスは、1946年3月11日に英軍に逮捕された後、最初は、英国の厳しい情報官に殴打されながら、すでにドイツ敗戦後、1年近く前に逮捕されていたナチス幹部の尋問・調書をもとに、戦勝国の意に沿ったシナリオに従い、アウシュビッツでの蛮行を告白していった(告白させられていった)ものであるかもしれない。
ドイツ人であるヘスが、収容所内で書いていたものは、最初殴打されながら、調書に書かされていた告発内容・アウシュヴィッツ収容所のガス殺の一部始終の証拠かためが、一応終了し、次に逮捕から1ヶ月が過ぎた後、その後は、他の逮捕者の告白との整合性を担保していくために、調整していく必要があったことだろう。
とにかく、初代アウシュヴィッツ収容所長・ルドルフ・ヘスの証言こそ、身も凍るようなホロコースト全体の構成には絶対欠かせない事項なのである。
それにしても、ヘスの尋問調書は、犯罪告発のために検察官が書いたものにサインしたもののほかまた、精神科医との会話での記録もあるようで、検事調書とは別にヘスは、鉛筆で手書きの手記も書いているようだ。ヘスが遺した手記全体は、他の被告の犯罪告発に深く関連するため、同時並行的に何度も書いた(書き直させられた)バージョンがあると認識しておいたほうがよいのではないだろうか。
収容所内で書いた告白録は、すでにヘス自身も、書いているように、
「わたしの最初の尋問で得られた証拠は殴打によって実現した。調書に何が書かれたのかわたしは知らないがそれでもそれに署名をした」
片岡啓治訳による『アウシュビッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』の末尾には、この手記を仕上げた年月
1946年11月 クラカウにて
ルドルフ・ヘス
と言う年月入りのサインにより締めくくられている。
ヘスの署名があるが、これだけで、殴打され書かされた検事調書と同じように、独立した証拠となるものなのだろうか。そうではあるまい。
ヘスの『告白録』の、1963年に出版された活字になった原書ではなく、もとの手書きの原稿は、ペンで書かれたものなのだろうか、それとも、レオン・ゴールデンゾーンが記しているように、手書きで書いていたのだろうか。わたしたちは、本当に、まともな原テキスト群に出会っているのだろうか。
歴史学として、原テキスト検証を行った上で、「ホロコースト」を論じているのだろうか?
もしも、ヘスが、手書きで、それも、鉛筆で『回顧録』を書いていたなら、ヘスの推敲や訂正痕を誰が証明できるのだろうか。筆圧、紙質、訂正痕などをどうして、合理的に遡行して検証できるだろうか。
「ホロコースト」論議はまだ、入り口にも届いてもいないのではないだろうか?
なお、片岡啓治訳の『アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』出版元のサイマル出版会がなくなったため、長い間この本は絶版・品切れ状態であったのだが、近年、講談社より「学術文庫」に収められているようだ。「殴打の件」は、この版では修正され、正されているのだろうか。私はまだ、学術文庫版を入手していないのだが。
ところで、「修正主義」ということばは、日本では、南京虐殺はなかったかのごとく論ずる歴史観をふりまく人たちに対する痛烈な批判のことばとなっている。
このことばを世界史的に論じると、「ネオ・ナチ」とか、ドイツ・ファシズムの悪逆を否定するとんでもない連中というイメージが通念になっているようなのだが。
「修正主義」のそもそもの語源は、ラテン語のrevidere らしく、「見直す」 からきているようだ。
オックスフォードのラテン語ー英語辞典では「 to see again 」 「 go to see again 」とあった。
いま、流布している、通説となった正義を振りかざすひとたちの言説に振り回されず、歴史(学)の発端に戻り、何が原資料なのかを再考すべきなのではないだろうか。
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「「理論的には」「歴史」と「神話」は相反するものである。歴史は「実際の起こったこと」であり、神話は特定の現在の信念を正当化するために作り上げられた過去に関する仮構である。しかしながら歴史書に現れる歴史は「実際に起こったこと」ではなく歴史家が想像した限りで実際に起こったことについての考えに過ぎない・・・・・・「歴史的」データのそれぞれの一群は激しい選択の対象であった。・・・・・・同時代の一等資料といえども事件を「それが実際に起こったように」伝えはしない。それらは報告者の見た事実についての見解を伝えるだけである。神話の内容は確かに全く荒唐無稽であるが、それ以上の事も以下のこともするわけではないのである。」 E=R=リーチ
山口昌男 「第三世界」における歴史像ー行為としての歴史ー」 岩波講座 『世界歴史』 『第30巻 別巻 現代歴史学の課題』1971年刊行 (135ー136頁)から
わたしたちは、神話と歴史を区別しているように思うし、思われがちなのだが、何を史料・資料とするかは、微細に考察していくと、次第に神話と歴史の境界が定まっていない未知の領域に入っていくのを微かに感知する。「ホロコースト」の探求もやはり同じではないだろうか。油断は禁物である。「われわれ自身の予断の中に、あっと驚く神話的思考の痕跡」が発見されるかも知れないのである。くれぐれも、油断してはならない。のではないだろうか。
つづく