野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか

2016年10月22日 | 幕末・明治維新

           ▲石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 定価2700円+税

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックス ほか その1-1

 

もうすぐ、明治維新から、150年になる。

明治100年にあたる前後、日本では、高度成長の真っ只中であり、大手出版社各社が、一般向けの日本史の大部なシリーズを続々と刊行していた時代である。我が家でも、父親が、交流のあった本屋から中央公論社版の『日本の歴史』を買い始めていた。一巻目は、井上光貞の『神話から歴史』1965年で、おかげさまで、私は古代史の面白さをはじめて知ったのだった。あの頃の日本史のシリーズは、一人一巻主義のものが多く、一人でよく、過不足のない本が出せるものだと感心したのだ。年表・図録なども含めると全部で31巻もあって、近代100年という意識が、出版社や執筆者側にあったのだろうか。井上清に「明治維新」、今井清一に「大正デモクラシー」を書かせている。あの頃は、かならずしも、左右の別なく、その時代の専門領域の新進・中堅研究者に執筆依頼をしていたと思われるのである。

今の若い人は、1960年代に新潮社から、『マルクス・エンゲルス選集』などが刊行されていた時があったのだなどという話を聞くと「え!嘘!」と驚くだろうが、角川文庫にも、プラトンの本の隣にはマルクスの著作も並んでいたのだ。

                              ・

                              ・

明治維新に関わる急激な社会の変化には、さまざまな要因が絡んでいる。しかしながら、その思想や行動の背後の問題も含めて、こうに違いない、あるいはこのような解釈が妥当であるというという見解がなかなか得られない。

ならば、学校で習った明治維新の内容など、とうの昔に記憶から消えているのだから、まずは、一般的な概説や通説を一度白紙に戻して、一から考えてみよう。

異説・怪説?珍説も含めて、明治100年ならぬ、明治150年に向けて、明治維新・あるいは、日本近代の謎・あるいは、暗闘や工作の足跡も含めて探してみよう。

                              ・

                              ・

 明治と改元された年から、始めればよかったのかもしれないが、その前後からと思って、幕末・開国から始めようとすると、いきなり難問に遭遇してしまったのである。孝明天皇の崩御に関わる問題がひとつあるのだ。

教科書に孝明天皇の死を詳しく記していた記憶はないし、それで、歴史教科書も出している山川出版社の『山川 日本史小辞典(新版』2001年 を調べると、「1866年(慶応2)痘瘡で死去」とある。この事典の親本である同じ出版社の『日本史広辞典』1997年で見ても同内容・同文であった。

あるいは、と思い、吉川弘文館の『国史大辞典』でも調べてみたのですが、これといったことは書かれていない。どうも、この方面の研究はタブーになっているようだ。

したがって、これまでの公式説に従えば、孝明天皇は、「痘瘡で死去」というのが、大方の一般論であるようだ。

しかし、市井では、孝明天皇は、痘瘡で死去したのではなく、倒幕派による、暗殺であるという噂は、孝明天皇の死去当時から絶えず流れていたのだ。

当時イギリス外交官として赴任していた、アーネスト・サトウは、日本語訳もある『一外交官の見た明治維新』1960年岩波文庫 で、下記のような情報を得て、記している。

「噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(孝明天皇)は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人びとに殺されたというのだ。」 アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新』1960年岩波文庫 (234頁)


アーネスト・サトウは、イギリスの外交官であり、また日本語も本国時代から学び、堪能なことから、上位高官の通訳もしている。多くの情報収集も積極的に心がけているところからすると、イギリスの通常の外交官の仕事以上に、現在でいえば、情報将校にもあたる仕事をこなしている。ましてや、上官の通訳もし、外交文書の翻訳もしているのである。外交上極秘にあたるものは、この本に記載されていないにしても、このことに配慮しながら、日々、日課として日録をつけていたものと思われる。孝明天皇の毒殺という噂にしても、文脈上からすると、アーネスト・サトウは、肯定的に受け止めているように見える。また、「前将軍(訳注 家茂)の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。」 『一外交官の見た明治維新』1960年岩波文庫 (234頁) と記している。

この本の原著刊行は、1921年の刊行なので、戦前には、訳されているのだが、この、孝明天皇毒殺の部分については削除されて訳されているようだ。戦前においては、この件に関しては、畏れ多いタブーであったのだろう。

                             ・

                             ・

               徳川幕府も、天皇も 攘夷であったものが

                        ↓

         徳川家茂が孝明天皇異母妹和宮と婚姻 (公武合体・公武融和へ 1863ー1864年)

                        ↓

         1966年 第二次長州戦争 8月29日 敗戦の報の中で徳川家茂、大阪城で病死、

         1867年 1月30日 孝明天皇の病死

                        ↓

         1867年 2月13日睦仁親王「(明治天皇践祚)

                        ↓

         1867年3月月7日 薩長連合

                        ↓

         1867年8月 薩摩藩士 幽居中の岩倉具視と王政復古の密議

                        ↓

         1867年9月8日 前土佐藩主山内豊信(容堂)高知城下開成館でアーネスト・サトウ引見

                        ↓

         1867年9月11日 京都藩邸で、薩摩・長州と倒幕挙兵の密議

                        ↓

         1867年10月15日 長州藩・薩摩藩の倒幕挙兵順序の約定

                        ↓

         1867年10月17日 薩・長・芸の三藩連盟

                        ↓

         1867年10月29日 前土佐藩主山内豊信(容堂)幕府に大政奉還を建議させる

                        ↓

         1867年11月9日 将軍徳川慶喜、大政奉還を秦請

                        ↓

         1868年1月2日 朝議、三条実美など五卿の復官、入京許可、岩倉具視蟄居を解かれる

                        ↓

         1868年1月2日  この夜岩倉具視 王政復古の情報を雄藩に連絡

         1868年1月3日  天皇、王政復古を宣する。総裁・議定・参与の三職を置く

                          ・

                          ・

アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』は読んでみると、かなりの頻度で、やがて倒幕派となる幹部たちと情報交換をしていることが分かる。イギリス本国特命の極秘の秘密事項はこの本では書かれていないが、西国藩の政治政策変更に大きく絡んで、イギリスの外交政策を伝えている。イギリスは倒幕・王政復古の動きに、微妙に絡んでいるのは間違いないのではないか。

 

さて、入り口付近でうろうろしているうちに、日が暮れてきてしまったので、今日の表題は次回に回してアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』の中から、先に一部引用した孝明天皇の死に関わる説の部分を示しておきたい。

 

 ▲ アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』 上巻 234頁 1960年 岩波文庫

 

上のような、幕末・明治維新の孝明天皇崩御に関する噂が、すでにイギリス外交官の耳にまで入っていて、外交官時代の回想録にも示されているのだから、日本の史学界でも、この問題は大いに議論され、一定の方向性が、すでにあるのかと、調べてみたのだが、最近は、この問題について書かれた論は、意外に見あたらないのだ。

 

かつては、ねずまさしが、1954年に『歴史学研究』誌上で、「孝明天皇は病死か毒殺か」という論文を発表していたようだ。

その後、三一書房の三一新書で、『天皇家の歴史』上・下巻で、このことに触れているらしい。

入手予定なのだが、まだ手元にないので、これは、入手後、読んでから報告することにして、、

それ以外では、

田中彰 『明治維新の敗者と勝者』 1980年 NHKブックス368  日本放送出版協会

が、この本の第四章ー2で「孝明天皇毒殺事件」として、触れている。この論考は最初『週刊読売』臨時増刊号、1958年12月に掲載されたものを、引用等に若干補筆とある。

時期的には、ねずまさしの次の論ということになる。

その後、原口清が、1989年 「孝明天皇の死因について」『明治維新史学会会報』15号

「孝明天皇は毒殺されていたのか?」 『日本近代史の虚像と実像』1990年1月 大月書店を発表し、幕末・維新研究家の石井孝と『歴史学研究月報』で、何度かにわたり論争をしていたようだ。

論争は、歴史学研究専門誌の会員に配布される月報であり、一般に入手しにくいものなので、あまり、注目されないまま、論争は打ち切りとなり、現在では、石井孝は他界されているので、その後の論争は未了のままになっている。

論争そのものの復刻ではないが、原口清は、自分が発表したものは、のち、『原口清著作集』全5巻 2007ー2009年 岩田書院に収録されている。

今のところ、上の原田清の著作集は刊行から余り経っていないので古書店にもなく、新本は高価格で入手困難である。さしあたり、原田清が書いた論考は大月書店で刊行していた、『日本近代史の虚像と実像』に収録されている「孝明天皇は毒殺されていたのか?」を手がかりにすることにしたい。

以上、これから、孝明天皇崩御に関する論考は以下のようなものを読みながら考えることにし、ブログで紹介後、さらに必要となれば、『孝明天皇紀』ほかを入手して再検討してみたい。

                          ・

                          ・

① ねずまさし  『天皇家の歴史』 三一書房 1973年

② 田中 彰   『明治維新の敗者と勝者』 日本放送出版協会 1980年 「孝明天皇毒殺事件」

③ 原口 清   「孝明天皇は毒殺されていたのか?」 『日本近代史の虚像と実像』に収録1990年1月 大月書店

④ 石井 孝   『近代史を視る眼』 1996年 吉川弘文館 Ⅲ 開国期の人びと 四「孝明天皇病死説批判」 1 原口清氏による病死説の難点  2 急性砒素中毒の症状 3 孝明天皇急死の背景

                         ・

                         ・

▼石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックス ほか

    

▲石井孝 『近代史を視る眼』            ▲田中彰 『明治維新の敗者と勝者』

 

 

  ▼アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新』1960年 岩波文庫

 ▲ アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新』1960年 岩波文庫

 

なお参考までにウィキペディアで、孝明天皇をの項を調べると、死因をめぐる論争について、記述があるのだが、あたかも、原口清の論説の勝利のように書かれている。明晰な公正性に根ざす批評とは思えない。また、石井孝の論考や、田中彰の論考も参考文献にも掲げていない。石井孝、田中彰二人は、幕末・維新研究でははずすことのできない研究者ではないだろうか!

ウィキペディアは、便利なものではあるが、項目によっては、極めて悪質な世論誘導を伴っているプロパガンダの類も多いのである。

ウィキペディア日本版の孝明天皇の論争部分には、参考文献の取捨選択が、執筆者によって、明瞭に操作されていると思われる。なぜ、論争の主たる相手の参考文献を掲げないのであろうか。幕末・維新の日本史学研究者が、皆、孝明天皇疱瘡死亡説で一致しているわけではないのではないだろうか。自分のブログ・ホームページで、自説を掲げるのはかまわないが、公共性・公開性・公平性を念頭に置いて執筆してもらいたい。

また、「疱瘡」「痘瘡」「天然痘」の症状経過について、「ウィキペディア」を調べると、またもや、孝明天皇の疱瘡死因に行き着くのである。どうもかなり、用意周到に、孝明天皇疱瘡死亡説導きながら、堂々巡りし、循環する仕掛けになっているように見受けられる。

たまたま、今回、ウィキペディアで、孝明天皇を調べてまた気がついたことなのだが、前にこのブログで書いたことがあるのだが、ナチス・ヒトラーの陰謀説で名高い、「ドイツ国会議事堂炎上事件」の項でも、西ドイツ政府・西ドイツで著名な研究者と東ドイツの研究者と政府合同の調査の記録を無視して、共産党籍をもつ外国人単独犯行説を相変わらず、持ち出してきている論に出会ったことがあったのだ。

国家権力の裁断を墨守したい、国家を越えた不思議な輩が、インターネット上の百科事典の中を我が物顔で、動き回っているようなのだ。

 

つづく



最新の画像もっと見る