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本日の探書ニュース 田中 彰 『開国と倒幕』 集英社版日本の歴史 その1

2017年05月20日 | 幕末・明治維新

                   ▲田中 彰 『開国と倒幕』 [集英社版日本の歴史15] 1992年

 

本日の探書ニュース 田中 彰 『開国と倒幕』 集英社版日本の歴史 その1

 

本日の探書ニュース 田中 彰 『開国と倒幕』 集英社版日本の歴史 その1

▲田中 彰 『開国と倒幕』 [集英社版日本の歴史15] 1992年 当時定価2330円+税

一人一巻シリーズの日本史の企画は、大体この時期までのものは過去の日本史の大家や業績の継承の上に執筆しながら書いているので、安心して読むことができ記述のバランスがとれているのだが、やや突っ込みに欠けるきらいがある。田中彰の「孝明天皇の死」をめぐる記述は自著の『明治維新の敗者と勝者』に比べて、大幅に抑制した筆致となっている。

前日、このブログで、田中彰は1980年の著書『明治維新の敗者と勝者』では「孝明天皇毒殺事件」という項目で13頁にわたり、比較的多くの頁を割いて、孝明天皇の症状の変化を記述しているのだが、1992年の『開国と倒幕』では、わずか2頁、それもコラムとして、下段部分のみの2頁であるから、本文頁に換算すれば、1頁分しか記述に使っていない。

また、記述項目のタイトルの変化が象徴的でもある。

「孝明天皇毒殺事件」                「孝明天皇の急死」

      ▲                           ▲

1980年 『明治維新の敗者と勝者』   →      1992年 『開国と倒幕』

田中彰の1992年の「孝明天皇の急死」の記述はわずか2頁の小さなコラム記事なので下に掲げてみる。

 

▼ 田中彰  『開国と倒幕』 にあるコラム記事

 

 ▲田中彰  『開国と倒幕』 にあるコラム記事

 

上のコラム記事と、前日のこのブログ5月19日の、『明治維新の敗者と勝者』にある孝明天皇についての記述とを比べてもらいたい。

明らかに、田中彰は原口清の「孝明天皇は毒殺されたのか」 『日本近代史の虚像と実像 1』 1990年大月書店に収録

に依拠しているようである。

原口清説の発表によって、1990年代以降は、幕末・維新の近代日本史研究者は、「孝明天皇の痘瘡死」説を採用していくようだ。原口清は新たな幕末・維新史の研究会立ち上げに関わっていることから、若い研究者はどんどんと関心分野の変化をきたしているのかも知れない。

田中彰も、上のコラムを見る限り、前著の 「孝明天皇毒殺事件」説から、撤退しているようにも見える。

これに対して、以前より石井孝は、ねずまさし 「孝明天皇は病死か毒殺か」 『歴史学研究』「1954年7月掲載」の説を評価している。

石井孝は、ねずまさしと同様に

孝明天皇は

「痘瘡が快方に向かうことが決定的になった12月24日に何者かによって一服もられ、その夜中から翌25日にかけ、毒殺の症状を呈しつつ他界した」 とするのである。

田中彰は、コラムでは原口清の「孝明天皇は毒殺されたのか」に依拠してしまい、自らその死の原因について、医学的説明については「悪性痘瘡による病死」説を採用してしまったようだ。

石井孝は、痘瘡→ 痘瘡症状悪化 →  病の峠を越え症状回復  → 何者かに一服盛られる→  砒素中毒症状のような症状による死 としている。

田中彰は、1992年の著書のコラムの最後で「歴史を見る目の厳しさ」と言う以上は、専門の医学研究の言説により、医学的見解を採用するなら、

「痘瘡の医学的見解の理解」とともに、

「砒素中毒など薬物による中毒症状の医学的見解の理解」も併せて、精緻に再検討すべきであったのではないかと思われるのだが。

日本近代史の研究家の

ねずまさし も

石井 孝 も

田中 彰 も

原口 清 も みな鬼籍に入ってしまった。

彼らの歴史理解の追求は、そのどちらに高い評価を与えるべきなのだろうか。

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注文していた、石井孝 『幕末悲運の人びと』 1979年 有隣堂 5月19日ようやく入手。これを読み込ながら、下記の本を再読・再々読してみたい。

1953 ねずまさし 『天皇家の歴史』 新評論社 のち三一書房より補正の上新資料を追加1973年復刊」

1954 ねずまさし 「孝明天皇は病死か毒殺か」 『歴史学研究』173

1979 下橋敬長  『幕末の宮廷』 東洋文庫 353 平凡社

1979 石井 孝  「反維新に殉じた 孝明天皇 『幕末悲運の人びと』収録  有隣堂

1980 田中 彰  『明治維新の敗者と勝者』 NHKブックス 日本放送出版協会

1990 原口 清  「孝明天皇は毒殺されたのか」 藤原・今井・宇野・粟屋編 『日本近代史の虚像と実像』大月書店

1996 石井 孝  「孝明天皇病死説批判」(発表は1990年) 『近代史を視る眼』 吉川弘文館

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それにしても、5月19日法務委員会での、「共謀法案」裁決はひどかったが、ネットで、暗殺や陰謀など毎日情報収集している検索歴など、怪しいとマークされたものは心の内面規制にまでひたひたと侵入してくるのではと恐怖を感じる。

いよいよ、嘘が堂々とまかり通る時代にはジョージ・オーウェル言うように、「真実を語ることは革命的行為」なのではないだろうか。

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先のねずまさしの「孝明天皇は病死か毒殺か」 『歴史学研究』173 を読んでいたところ、1942年京都の名勝記念物調査のとき、奈良本辰也などが真言宗誓願寺にでかけ、調査をした際、孝明天皇の病気平癒のための加持祈祷を行った「上乗坊の日記」を発見したそうなのである。

孝明天皇が絶命した12月25日の条に

天皇の顔には紫色の斑点があらわれて、虫の息、血を吐き、また脱血」云々という記事が書かれて、赤松俊秀ら一同は非常に驚き、尋常の死に方ではない、という印象を受けたという。この時奈良本(辰也)氏は当時の京都大学教授西田直郎氏にこの記録の発表をすすめたところ、博士から叱られたという話がある。ところが、不幸にも一同はこの記事を記録しておかなかった。その後まもなく経営難のため解散し、のち文書は紙くず屋に売れれてしまい、今日関係者が苦心しているがついに発見不可能になってしまった。・・・・・・」 

(ねずまさし 「孝明天皇は病死か毒殺か」 『歴史学研究』173号 33頁 注より)

戦前には、京都大学の教授といえども、新発見の幕末・維新資料が見つかっても、若手の日本史研究者を叱ったというから、文部省が編纂した明治維新史の正史・定説に抵触するようなものは、発表も出来ず固く隠蔽されたことが分かる。維新編纂では使用されない重要資料がまだまだあったのだ。孝明天皇が重篤のとき、七社七寺が回復を祈り加持祈祷したと『孝明天皇記』にもあるから、これに参加した宗教関係者、家族はその日記などに多くの人が記していたに違いない。まだまだ、埋もれている資料があるか、または、秘匿されているのかも知れない。

 

 つづく



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