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 石井孝 『幕末悲運の人々』 有隣新書 1979 その2

2017年05月21日 | 幕末・明治維新

                   ▲ 石井孝 『幕末悲運の人々』 有隣新書 1979 当時定価680円

 

 

石井孝 『幕末悲運の人々』 有隣新書 1979 その2

 

石井孝 『幕末悲運の人々』 有隣新書 1979 

 

▲石井孝 『幕末悲運の人々』 有隣新書 1979 当時定価680円

 

▲石井孝 『幕末悲運の人々』 1979年 有隣新書 目次

 

▼ 孝明天皇毒殺説に関する重要著作の一つ、石井孝 『幕末悲運の人々』 ( 105頁~107頁)

 ▲石井孝 はこの本、 『幕末悲運の人々』 で 戦後1970年代に紹介発表された孝明天皇時代の宮廷典医だった伊良子光順(いらこ・みつおさ)の日記のことを記している。

『伊良子光順日記』を保存されている伊良子氏は代々医師を継いでいる家系のようで、この日記の元になったメモも含む内容は、『孝明天皇紀』には収録されておらず、また、戦前に文部省から出版された『維新史』にもない。孝明天皇の痘瘡死以外の事実を伺わせる内容は当然のことながら『孝明天皇紀』には採用されなかった。

戦後、孝明天皇毒殺説の検討は、ねずまさしによって本格的に始められたが、1950年代前半には、この資料のことは知られていないので、この資料を利用することはできなかった。

もっとも、『伊良子光順日記』は、現在でも伊良子家の個人所蔵のものであるし、誰もが読めるように資料化されてもいないから、拝見させてもらった人々から、一部伝わるものだけが頼りなのだ。

伊良子家では代々医師として後継者がこの資料を保存しておられるのだが、この史料の重要性に鑑み、『伊良子光順日記』の全容をいつか明らかにしていただきたいと願う。正式の『日記』以外にも、伊良子光順が御所内でメモしたものまであるということであるから、実は大変重要な、公式記録として差し出せない伊良子氏が診察して感じた機密性の高い情報も含まれているようだ。

 

という次第であるから、現在が、自由な民主主義社会であるからには、この史料が完全に、脅迫されることなく安全に研究できるような文化環境がぜひとも必要だと思う。

さて、石井孝は、『伊良子光順日記』を保存しておられる伊良子光順の曾孫の伊良子光孝さんが「天脈拝診日記」(『滋賀県医師会報』という題で、書いている論文にあるものを使用して書いている。

 

12月25日、孝明天皇が亡くなった日のことであるが、

伊良子光孝が「天脈拝診日記」で、宮廷典医の伊良子光順の日記で記してあることを下記のように書いている。

「七ッ時頃、御痰喘の御容(様)子に付き一同御次の間へ進む。藤木両人御さすり御用につき御前へ参る。織部正(伊良子光順 (典医)日記をつけている本人)、御膏薬御用に付き御前へ参る。其余御通度毎に昼夜差別なく度々御療治上る。」

この文章について、石井孝は、注意してみると次のようなことが分かるという。

箇条書きに要約してみると

1 孝明天皇は容易ならぬ症状である。

2 「痰喘」は、咽喉へ痰がつまって咳き込むこと

3 医師一同が天皇の次の間に進んだこと 「痰喘」がの発作がひどい

4 「さすり」 は苦痛を和らげていること 発作がひどかった

5 「御膏薬」 は痔の手当、「御通」は下痢を意味する。

 

この12月25日の孝明天皇の症状について、『伊良子光順日記』の曾孫で医師の伊良子光孝が、『日記』以外に伊良子家に所蔵してあるメモで肉付けして、「天脈拝診」は以下のように記しているとして、石井孝は『幕末悲運の人々びと』で引用している。

 

「正午の御薬を服用されて丁度数時間を経たかと思われる七ッ時頃。突如!奥から慌ただしく御差し(女官)の一人が光順らの控える御敷の間へ血相を変えて走り込み、”お上が お上が” とうわづった声で叫んだ。この日の当直医は藤木近江守・福井主計助・伊良子光順と昼夜詰切の光順等五名である。彼等は期せずして立ち上がると一斉に御寝所へ走った。天皇は頑固な咳き込みと共に吐血され御寝床の「中で大変な御苦しみ様ではないか。直ちに典薬寮へも連絡して出仕中の御医全員が急遽駆けつけたが、何ら手の施しようもない。側近女官衆はただオロオロするばかり、間もなく天皇の御意識も消失された。然し咽喉から何かをはき出したいように胸をかくむしってのお苦しみようだ。

中略

医師の誰もが直感したのは、”急性毒物症状”である。かつて民間で自殺を図ったものが石見銀山(砒素系劇薬)を飲んで死んでいった症状と全く同じ。」

 

中略

 

医師団のうち藤木伊勢守と三河守の二人が、少しでもお苦しみを和らげようと御背を必死にさする。意識不明のままおもらしになる便、さぞ御痔も痛いことであろう。その都度光順が御手当し奉る。七転八倒の苦しみとはこのことである。」  「天脈拝診」より (石井孝 『幕末悲運の人々びと』 108頁~109頁)

 

幕末の孝明天皇を見守る宮廷医師団一同は上のような、死因にたいする認識で一致していたことを伺わせるのではないだろうか。

曾孫にあたる伊良子光孝が「滋賀県医師会報」で書いている「天脈拝診」は大変重要な史料紹介であり、論考であると思う。

「天脈拝診」連載が、単行本になったとは風の便りにも届いていない。

幕末・明治維新には故鬼塚英昭が『日本の本当の黒幕』でも指摘していたように「巨大な黒い霧」が漂っている。未だに濃霧が晴れてこないと思うのは私だけではあるまい。今の日本の困難さもその「黒い霧」から発しているのではないか。

12月24日までには、孝明天皇は疱瘡の症状から順調に回復して、食欲も出てきていることが、典医たちの日記に記されている。12月27日には、快癒の催しが予定されていたのであるが・・・・・・・・12月24日深夜から25日に何があったのか・・・・・・?

 

つづく

 

 



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