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『九州島における中期古墳の再検討』 ほか 高田貫太の垂飾付耳飾周辺のことなど

2013年05月14日 | 初期国家・古代遊記

今年に入って、高田貫太の「垂飾付耳飾をめぐる地域間交渉  ー九州地域を中心に」 という論文の抜刷を入手した。熊本古墳研究会の創刊号に掲載していたものだ。今週は次の古書到着の前に、これから参考文献入手のために、いくつかメモをしておこう。また、九州の古墳時代遺跡は甲冑その他、渡来文物も多いので、『九州島における中期古墳の再検討』 2007年 九州前方後円墳研究会 をようやく探しあて、これを見ている。第10回研究大会は、宮崎で開かれ、基調講演を、和田晴吾が「古墳時代中期」と題して話をしたようだ。 レジュメ資料には、箇条書きの文と、古墳の副葬品編年図などがあり、古墳時代中期を考えるヒントがあった。

和田晴吾の 「中期を設ける必要性」という、言葉の部分に注目した。

それにはこうある。「 前期以来の首長連合の体制の到達点を明確にするため」 追加資料 1頁

古墳時代の画期をとらえるのに必要とみている。

「比較のための基準作り(多様性を推しはかる)」 という言葉もあり、作業概念的でもある。

なるほど。 どこかに線を引かないと差異が見えてこないしね。

「中期の前後は、副葬品の組み合わせの大きな画期ではない」 という言葉もあった。

それで、和田が注目するのは、「古墳の築造動向(墳形・規模・墓域)」 の変化のこと。

「地域ごとの古墳の秩序の類型化とその比較が重要」 とする。 

 

 

 

 ▲和田晴吾 基調講演 「古墳時代中期」 『九州島における中期古墳の再検討』 講演 レジュメ資料より 2007年

 

 

     ▲ 和田 前掲 講演 資料レジュメ 図版より

 

 

   ▲ 和田 前掲書 講演 資料レジュメ 図版より 

この図の 図4 は 説明に「成熟期の首長連合体制概念図」 と書いてある。 講演を聞いたのではないので、よく分からないが、中間域と外周域にある 丸と丸の間は 空白があって、どちらの首長にも属さない、あるいは、接合したり、離反したり、という、関係のルーズさも有る程度許容しているような、ゆるいが、また一方の観点からみればきちんとした首長連合が存在していたというモデルなのか。

この図をみていて、5月5日のブログで紹介した、佐々木の言っていたタンバイアの首長国分析の銀河系衛星国家群を想い出した。

 

  ▲ この図版は 一瀬和夫 「倭国の古墳と王権」 『日本の時代史 2 倭国と東アジア』 2002年 吉川弘文館  109頁

和田の模式図版は、弥生時代から、古墳時代終末期までの長い時間を模式化している。これはこれで、参考になる。

一方、一瀬の図版は、百舌鳥・古市の4世紀末~5世紀の大型古墳の編年を類型化した試み、古墳時代中期の大王墓周辺の構造が、よく表現されている。実体だと観念してしまうといけないが、4世紀末から、5世紀いっぱい、かけて、大和政権は、地域との関係も含めて、大きく変動を続けているのが見える。倭の五王との関連もこれから、より精度を増して論議されていくだろう。

 

 

  ▼高田貫太の「垂飾付耳飾をめぐる地域間交渉  ー九州地域を中心に」 『熊本古墳研究』 創刊号2003年 熊本古墳研究会 より (47頁)

 

 

 ▲ 九州では、江田船山古墳から出土した垂飾付耳飾が著名。相次ぐ埋蔵文化財の調査では立山山古墳群からの出土をはじめ、上図のように多くの垂飾付耳飾が出土していたことを高田貫太の論文で知った。私が想像していたよりはるかに多いことがわかlった。また、この論文では、垂飾付耳飾の入手先が韓半島のどことの交渉が、どのような形でなされていたのか、モデルとして、いくつかの案を提起している。

 

  

 ▲ 群馬県 高崎市 剣崎長瀞西遺跡 10号墳 から出土した、金製の垂飾付耳飾。一辺10mに満たない方形墳から出土している。付近からは、韓式系土器、馬具の着装の馬を埋葬した土坑なども発見されている。積石墳であり、渡来人がやってきたと考えられる。 黒田 晃 「剣崎長瀞遺跡と渡来人」 『高崎市史研究』 第12号 より  2000年 高崎市 

 

 

 

 ▲ 金製垂飾付耳飾                       ▲ 兵庫県 カンス塚古墳

 左 奈良県 新沢109号墳、右 宮山古墳

『特別展 倭の五王時代の海外交流 ー渡来人の足跡ー 』  1987年 橿原考古学研究所附属博物館 巻頭口絵より

5世紀は、戦争の世紀。甲冑や刀の埋葬された古墳は国内に数多いが、必ずしも地域最大の前方後円墳の被葬者のみ、このような、金製の垂飾付耳飾が副葬されたわけではない。小規模で目立たない渡来系の墳墓でも発見されることがある。

倭国の国家成立過程の道のりと美の文化の道のりは、5世紀の中で、幸福な出会いをしていたのだろうか。気になるところである。

垂飾付耳飾に言及した論文・研究 (日本文のみ) 

野上丈助  1983 「日本出土の垂飾付耳飾について」 『古文化談叢』 

石本淳子  1990 「日韓の垂飾付耳飾についての一考察 ー古墳時代の日韓関係考察のためにー」 『播磨考古学論叢』 

谷畑美帆  1993 「日本及び朝鮮半島出土の垂飾付耳飾について」 『考古学研究』 40ー1 考古学研究会

宇野慎敏  1996 「日本出土装身具から見た日韓交流」 『4・5世紀の日韓考古学』 九州考古学会・嶺南考古学会

三木ますみ 1996 「朝鮮半島出土の垂飾付耳飾」 『筑波大学先史学・考古学研究』 7号 

高田貫太  1998 「垂飾付耳飾をめぐる地域間交渉」 「『古文化談叢』、第41集  九州古文化研究会

宇野慎敏  1999 「初期垂飾付耳飾の製作技法とその系譜」 『日本考古学』 7号 日本考古学協会

今田治代  1999 「熊本県竜北町物見櫓古墳出土の金製垂飾付耳飾」 『考古学雑誌』 84ー2号 日本考古学会

黒田 晃   2000 「剣崎長瀞遺跡と渡来人」 『高崎市史研究』 第12号  高崎市 市史編纂専門委員会 

高田貫太  2003 「垂飾付耳飾をめぐる地域間交渉 ー九州地域を中心にー」 『熊本古墳研究』 創刊号 熊本古墳研究会

 

高田貫太 (1998) によれば、垂飾付耳飾の技術的系譜に関する研究は浜田耕作・梅原末治によって始まると言う。

この両氏により、日本列島の垂飾付耳飾が、朝鮮半島の資料の資料との密接な関連性が指摘された。

浜田耕作・梅原末治  1923 『近江国高島郡水尾村の古墳』 京都帝国大学文学部考古学研究報告第八冊

その後、小林行雄 1966 「倭の五王の時代」 『日本書紀研究』 第2冊 で朝鮮半島から輸入された可能性を指摘。

その後野上1983により、日本列島の垂飾付耳飾の資料集成と詳細な観察の研究がなされ、さらに今日の研究の隆盛があるとしている。

 

垂飾付耳飾の製作技術や型式の分析によっては、渡来人が生まれ育ったふるさとも特定できるかもしれない。

国家形成過程の研究は、今日の古墳研究の主流であるが、権力分析とは別に、文化の系譜・嗜好過程の変遷も「想像の共同体」形成に欠かせないものであると思う。国家の暴力の前に、悲嘆するその中にあっても、なおも人々が、未来に託し、共同体が維持・存続できるのは、文化の構想力の魅力が、国家の暴力に優っているからなのだと思う。

 

 

 

 

 

 



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