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野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

ジョン・レノンの死をめぐるいくつかの本 その2

2013年07月01日 | ジョンレノンをめぐる本

ケネディ大統領没後30年前後の頃、1992年頃だが、オリバー・ストーン監督の『JFK』製作の動きが報じられ、まだまだ事件の真相が明らかにされていないことが明らかとなり、興味が湧いたことがあった。また『JFK』の映画の見た後は、「日本のJFK事件」とも言われる下山事件や、松川事件などにも再び関心がいくようになり、ぽつぽつと、その方面の本を探し求めるようになってきた。占領下の事件から60年後の2009年の年には、少しばかり、下山・松川事件に関する著書が刊行されたが、まだまだ、知りたいことが、深められていないと思うことがあり、ならば、ほんの僅かでも残された資料を再・再読しながら、事件を追ってみたいとしきりに思うようになった。ジョン・レノンの死についても解明されていない同じようなもどかしさを感じるのはなぜか。

 

さて、6月29日付のブログで、以下の7冊を日本語で読める、ジョン・レノンの死に関わる参考文献として、あげたのだが、その後、国立国会図書館の検索で、調べてみたものの、私の検索法が悪いのか、リストに追加できそうなものはほとんどなかった。わずかに、関連した文献で読めそうなものは、『週刊世界百不思議 NO41ジョン・レノン CIA暗殺は本当か』  講談社 だけであった。

ジョン・レノンの好きな人は、日本に数多いし、レコード・アルバムや、レノンの伝記本は、翻訳、日本人の著作も多いが、日本人による、ジョン・レノン暗殺事件をきちんと整理・研究した著作がまだないのではないだろうか。

1990 年 フェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 島田三蔵 訳 音楽之友社 のち 2000年に、学習研究社 から文庫本となり、学研M文庫に収録

 

 ▲フェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 島田三蔵 訳 音楽之友社 版 1990

日本語で読める、レノン暗殺に関わる探求ではこれが最良の書物ではないだろうか。生活費にも事欠く状態のマーク・チャップマンは、事件数年前、なぜ、長期の時間と金を費やす世界旅行ができたのか?その融資の保証元は?マーク・チャップマン裁判でのホノルル地元での調査ではそれがなぜか追求され詳しく調べられていないのにフェントン・ブレスラーは気がつく。裁判記録にあることと違う不可解な事実を発見し、驚愕する。 ・・・・・

「ユナイテッド航空には当時も今も(ブレスラーの著作当時)ホノルルから、ニューヨークへの直行便はない。シカゴまで行き、アメリカ中部の空の中心部であるシカゴで乗り替えなければならないのだ」 音楽之友社版206頁、学研文庫版は317頁

「わたしはすぐさま、「12月5日」と「12月2日」の件について、(ホノルル警察のルイス・スーザ)警部に尋ねてみた。彼のデスクの上に堂々とテープ・レコーダーを置いて、使っていると、彼は目の前に置いてあったニューヨーク当局へ送った報告書の原本を調べていたが、「いけない、日付は12月2日だ」といった、あとで、わたしは彼に電話をかけて、12月2日の搭乗券は、本当にユナイテッド航空で調べたかと確かめた。彼は、報告書を作成するとき、航空会社に確認してもらったといった。わたしは電話を切ると、彼の返事をノートした」 音楽之友社版208頁、学研文庫版は319~321頁

「1980年12月10日の「ニューヨーク・ポスト」に「昨夜」グローリア(チャップマンの妻)が「夫はニューヨークに行くため、8日ないし10日前にハワイを発った」といったというサムローゼンゾーンとデイヴィット・セイフマンが書いた記事がのっている。確かに、彼女はマークの行く先がニューヨークだといったと書かれている。だが、日付のほうは、さかのぼって算出してみると、ほぼ12月2日になる。12月10日の「8日ないし10日」前となるとマーク(チャップマン)の出発は11月30日と12月2日の間になるではないか。」 音楽之友社版209頁、学研文庫版は319~321頁

「(ジョン・レノン)殺人事件の翌日にニューヨーク市警がホテルのマークの部屋で、見つけた搭乗券・・・・その搭乗券は、12月8日の朝、彼(チャップマン)が部屋を出て、ダコタ・ハウスまでレノンを殺しにいったとき、わざと見つかるように、陳列していった所持品のひとつだった。・・・行きの日付は12月2日ではない。・・・12月5日なのだ。この証拠資料は、どう考えても筋が通らない。」 音楽之友社版209頁、学研文庫版は321~322頁

チャップマンが12月2日にホノルルを発ち、ニューヨークに12月6日に着く、謎の数日間こそが、著者のブレスラーがどうしても解きたいと思い、また当局が隠そうとしているものなのだ。地元のホノルル警察がニューヨーク捜査当局に報告した日付と合致しない点であり、事件後すぐの12月10日には妻もニューヨーク・ポストに対して、記者たちに事件前「8日から10日前に発った」と話していたのだが・・・・・・切符をねつ造してまでもどうしても隠したい、シカゴについてからの数日間があるのだ。

この本の著者ブレスラーは、チャップマンの妻グローリアへの取材を申し込むが、3度とも断られ、事件後すぐに語った出発日の食い違いの件を質すことはできなかったと記している。彼女はある時点から(チャップマン裁判が始まる前までには)脅迫をうけていることは確実であるだろう。

アメリカは自由の国というが、ケネディ暗殺事件の目撃者は、自分の証言を曲げなかった重要な証言者が事件後数年で次々と消されていく、あるいは不思議な事故で亡くなるのを肌で恐怖を感じ取ってきている。ケネディ暗殺から40年目の年にテレビ朝日系で放送された番組では、事件から40も年も経つのに、目撃証言の詳細を恐怖のため語れない人をありありと映し出していた。もちろん「赤いコートの女」ジーン・ヒルさんのように、「銃声は3発以上聞こえた」と、事件後すぐの証言を撤回しない人もいたのだが。

ケネディ暗殺事件の容疑者オズワルドの妻マリナが沈黙をした(強いられた)ように、チャッマンの妻グローリアもまた、沈黙のままである。

ケネディ大統領暗殺事件の政府見解に最初に疑問の声をあげて出版した研究者は、なぜかアメリカ生まれのフランス在住のトーマス・ブキャナンという人だった。最初アメリカで本を出版しようとしたところ、断わられている。(2012年6月9日の当ブログに記事あり) 

レノン暗殺の最初の本格的な研究もまた、外国人の手になるものであると思う。当時この事件を取材していた、イギリスの法曹ジャーナリストのフェントン・ブレスラーで、『誰がジョン・レノンを殺したか?』 なのではないだろうか。「自由の国アメリカの不自由な出版事情」 がこの本を読むとわかる。

見えない闇の奥の寡頭政治の怖さが見えてくる。

(アメリカの寡頭政治については、戦前から続いているというダラスの例を『誰がケネディを殺したか』の著者トーマス・ブキャナンが書いているので参照されたい、当ブログ2012年6月9日「1964年6月発行のトーマス・ブキャナンの本『誰がケネディを殺したか』」

さわりだけを再掲しておく。

「ダラスを牛耳っているのは、警察でもない。ウェード地方検事でもなければ、市長でもない。市長は記者団に向かって、もし市長がワシントンに出かけて大統領の葬儀に列席するなら、お前も殺すぞと脅迫を受けたと、訴えるような調子で語ったのである。ダラスを支配しているのは、そこに住んでいる人々でもなければ、公に選出された人々でも、住民から選ばれた公務員が任命した人々でもない。支配しているのは、「ダラス市民評議会」である。
『USニューズ・アンドワールド・リポート』(1964年2月3日)によれば、「市民評議会」は、1936年に作られ、喜んで市の改善のためにはたらく最高クラスの人々のグループである。評議員は推薦のみによる。
また「ダラスの古い新聞編集者」は、こういった。「ダラスを実際に支配している市民評議会は、慈悲深い寡頭政治である。」
 ダラスのある判事の娘は言う。「市民評議会の全員は実業家であるが、この市民評議会の上に最高エリートの少数グループががある。それは巨大な富と権力をもつ七人で、彼らは百万に近い人口を擁するこの都市について立案される多少とも重要な計画のすべてを受け入れたり、拒否したりする。この七人はあまりに重要な人物なので、直接役人を相手にせず、市民評議会を通じて、その命令を伝達する。」 トーマス・ブキャナン 『誰がケネディを殺したか』 1964 文藝春秋 162~163頁

おそらく、アメリカには、「ダラス市民評議会」の上に立つ少数グループの寡頭政治家がいて、それをさらに束ねる全国規模の寡頭政治家グループがあるものと思われる。そこでは、大統領すら、支店の番頭役しか与えられていないのではないか。ダラスの市長はケネディ暗殺の葬儀のとき、葬儀に列席するなら、おまえも殺すぞと、脅迫を受けたと、記者団に訴えるような調子で語ったとトーマス・ブキャナン 『誰がケネディを殺したか』 で記しているのである。

トーマス・ブキャナンが、アメリカ市民であることをやめ、フランスに移住したのもこの本を読むとよくわかる。彼が住んでいたアメリカの田舎町は不正だらけの 「慈悲深い寡頭政治」の恐怖が充満していたからなのである。

 

フェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 を翻訳した島田三蔵は、最初の翻訳・刊行の1990年から10年後の2000年の文庫版のあとがきで、以下のように語っている。

「本書の著者ブレスラーは、すでに、独自の調査によって、犯人がファンだったという俗説をはっきり否定し、その上で、自分の論理をみごとに構築した。それ以後、わたしはレノンの死に関する報道に注意を払っていたが、ブレスラーの推理を超えるものを目にしていない。それゆえ、死後二十年の節目の年に、この本が、再刊されるのは意義あることだろう。」

としめくくっている。

ブレスラーや、訳者に続き、この件をさらに解明しようという若者は現れないか!秘かに、新しいジャーナリストに期待しているのだが。・・・・

事件後、1日、2日くらいは、それぞれの記者たちが、自由に取材する、しかし、事件から、1週間も経ってくると、政府公式見解(FBIなど)をはずれる報道は、よほどの独立系メディアか、利害関係のない諸外国の調査報道ジャーナリストに限られるようになる。1月もたてば、大本営発表の書き写しだけが、情報として、というよりも、事実として大量頒布される。だから、レノン暗殺直後のチャップマンの妻グローリアへの12月10日のホノルルでの記者の記録、すなわち、妻が語ったとされる、「(12月10日から)8~10日前にホノルルを発った」というニューヨークポスト紙の記事が大事なのだ。この記事は、まだ、政府の筋書きの指示と検閲を受けていない時間帯だったからかろうじて記録されたのだ。

さらに、著者ブレスラーが、ホノルル警察のカウンターで、記録のためテープレコーダーを回しながら聞いた、ホノルル発の航空券の出発日について、ニューヨーク捜査当局に送った調査記録原本をみながら語った警部ルイス・スーザの言葉には、

「いけない、日付は12月2日だ」 といったと、繰り返しになるが著者のブレスラーは記録しているのである。さらに、念には念を入れて、

「あとで、わたしは彼に電話をかけて、12月2日の(シカゴ行きの)搭乗券は、本当にユナイテッド航空で調べたかと確かめた。彼は、報告書を作成するとき、航空会社に確認してもらったといった。わたしは電話を切ると、彼の返事をノートした」    音楽之友社版208頁、学研文庫版は319~321頁

ブレスラーは、1980年12月2日にチャップマンがホノルルを発ったという重要な日付けについて、警部の言葉を音声記録としても残してくれている。これは貴重な物的証拠だ。

ホノルル警察が、ニューヨーク捜査当局に送った記録書類は、ニューーヨーク警察がチャップマンが投宿していたホテルで発見したという(ねつ造)切符の日付につじつまを合わせて、チャップマン裁判の過程で12月2日発から12月5日の発のものに取り替えられているのだろうが。

このジョン・レノン暗殺事件は、1980年の12月8日におこり、まだ民主党のカーター政権下なので、CIA関与などありえないという論を唱えている人を見かける。しかし、11月のアメリカ大統領選でのカーターの大敗から1ヶ月あまりで、レーガン共和党政権への移行期になってきている。また歴史上の過去を学べばいくつも、大統領や政府・内閣の意向を無視した活動は行われているし、そこここに起きているクーデター騒ぎを見れば明らかである。日本の戦前の中国大陸での、政府の許可なしの一部軍部による独走・謀略事件に、のちに、政府が陰謀を追認し、それに便乗して侵略に深入りし、歴史をねじ曲げる類例など、いくらでもある。

かつてドイツ国会議事堂放火炎上の謀略によって、気が動顛したドイツ大統領は、条文の中味もよく検討せず、国民の権利を停止する戒厳令をただちに発してしまい、ヒトラーとその仲間たちの術策にはまり、独裁まで、あっという間の出来事だったことを思い起こしてもらいたい。(当ブログの2013年5月3日~8日を参照して頂きたい。)

大統領指揮下に法的にすべて収まるような組織であっても、歴史の事実が語るところは、そうではないかも知れないと考えられる事例も多いという経験知を無視してはならない。あり得ないと思うことをこれまでやってきたものこそが「政府外政府」たるものの隠然とした力なのだ。先のブログ「ジョン・レノンの死をめぐるいくつかの本 その1」で少し書いたように、1980年11月の大統領選では、共和党のレーガンが、圧倒的な選挙人の差でカーターを破り、当選を決めている。ニクソンの不祥事がばれ、その後の始末に追われて、フォード政権下で軍産複合体はやりたいこともできず、さらに民主党のカーター政権の平和外交により、軍産・複合体の我慢と怒りは頂点に達していたと思われる。

こんな時期だからこそ、アルバム製作や平和活動を再開しようとするレノンをいちはやく察知し、間もなく1981年にはレノンはアメリカ市民権を獲得して、彼が望めば市長や知事や・大統領選にもいつか影響を与えるかもしれない・・さらに彼の平和思想自体(アメリカの戦争経済や、文化を根底から変える潜在パワー)を、深く恐れていたものかもしれない。レノンがアメリカ市民権を得る前に・・・・1980年頃にいたり、ついに再びレノン排除のための工作を一気に再開したのではないだろうか。1980年10月に、『エスクァイア』誌にジョン・レノン中傷・攻撃記事が掲載され、チャップマンもこれを読んでいる。レノンの活動再開を前もって察知して、実にタイミングのいい時期に、レノン中傷・攻撃の記事がのったものだと私は思うが、過去のニクソン時代からの盗聴・尾行・スパイ情報収集が、音楽活動再開察知と中傷に役立てられたのでは?

長年しまいこんでいたが、着々と準備していた作戦を再始動させたのではないか。とわたしは読む。ニクソンの不祥事による退陣以降、ラテンアメリカへのアメリカの軍事関与はひっそりとしていたのだが。レーガン右派政権の誕生が高々と告げられた直後、1980年12月2日、エルサルバドルで起きたアメリカ人4人の修道女四人の失踪と同じ日、ホノルルを発ったチャップマン。これは同根から出たものではないだろうか。

公式には1981年1月20日正午、ドナルド・レーガン大統領の就任演説とともにレーガンの任期の始まりなのであろうが、大統領選挙のあった11月4日以降50州44州の勝利を受け、軍・あるいは関する水面下のネットワークは激しく動き出している。そもそも・・・なぜカーターは1979年のイラン革命後、自国のアメリカ大使館員人質救出作戦に失敗し、レーガン就任とともに人質が帰還してきたのか。対照的なあの二人の大統領の失敗と成功は、これを演出する人たちの創作によるコインの表・裏だからにすぎないから、なのではないだろうか。べらぼうな大事件になり、事態がめまぐるしく動きだすと、人々は一気に興奮して、思考停止・判断力を失っていることに全く気がつかない。・・・・・・・・

今年はケネディ暗殺から50年の節目の年、ここで、ジョン・レノンの死を含め、解明しようとする意志を、世界市民が示さなければ、

ジョージ・オーウェルのいうところの 「ビッグ・ブラザー」 の支配がすぐそこへと迫るのでは・・・・と危惧する。

最近は毎月のように陰謀めいた、きな臭い事件がアメリカで堂々と発生していると思うのだが。

銃規制などの重要な法案通過という微妙な時間帯の時期になぜ? 政党という文民政治など何の関係もないかのような、不思議な凶悪事件の連鎖が・・・・なぜか、ケネディ暗殺から50年を迎えようとしている年に、ケネディ大統領記念図書館の不審な炎上も伴い、何かの徴のように・・・・真実の追究を求める人々、に対する悪意の系譜を示す意味を込めた警告のようにも見える・・・・・。

ボストンマラソン爆発事件を契機に容疑者追跡と称して住宅街で起きた、就寝中の民家のドアを開け、捜査令状もなく、特殊部隊が入る光景は、さながら戒厳令の予行演習のようである。これは、ひょっとして国民を護るための訓練ではなく・・・・ 訓練と称して、訓練中に戒厳令が・・・本当のクーデターに移行する・・・・・猛暑によるわたしの妄想・幻覚ではないとよいのだが・・・・ これは・・・・・21世紀の、新たな形態のファシズムの始まりを予告するものとなるのではないだろうか?・・・・・

近著 堤未果 の『(株)貧困大国アメリカ』 2013 岩波新書 は、すでに戦前から行われてきた、寡頭政治ー慈悲深い評議会政治ー すでに多くの都市・行政体・メディア でおこなわれつつあったのだが、それの完成形態であろう。見えないファシズムから見えるファシズムへ あるいは人間存在の総商品化へ!国家全体の会社経営ヘ。

いったい今は、タイムスリップしたローマ時代の寡頭政治の中にいるのか。

ケネディ、ジョン・レノンの死の真実も、寡頭政治の中にいる間は、語られないだろう。真実の探求ができることこそ、自由であることの試金石だと思うのだが。「自由という名前を冠した寡頭政治」 

アメリカ国民なら、誰もが(うすうすあるいははっきりと)知っている。ほんとうの国家元首の役割をしているのがだれであるかを。

ふたりは虎の尾を踏んだ。(虎の尾が何か、知ったうえでの孤独な戦いであったと考えるが)

ジョン・レノン暗殺から33年、ケネディ暗殺から50年になる今年2013年。50年たってもいいかげんな捜査資料ですらも公開できない国家・行政体が、2039年まで、まともな資料を残していると思うか。断じて否!であるだろう。

アメリカ国家がこの問題を解決してくれるはずがない。平和思想家の暗殺、これは、アメリカ単独の問題ではない。どこにでも、いかなる国家にもふりかかってくる問題である。ならば、アメリカ国民だけでなく、探求心のある世界の市民が、今あるすべての資料を再点検し、嘘と・工作の痕を突き止めようではないか。特に初期の資料、事件直後の情報をそれぞれの地域で集成していこう。国家の規制やメディアの自主規制が始動しだす直前の記録のなかに、工作の痕が必ず残されているはずだ。我々にもできることがきっとあるはず。

フェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 を再読してみて、思うことは、

世界市民による真実の追究なしに、また国家の監視や工作を監視することなしに、寡頭政治による国家の破壊・収奪は防げないだろう。また市民の諸権利も守れないということだ。なぜレノンの死の直後から、アメリカ人の手によって、ブレスラーのような、ホノルル発の月日の違いについて、チャップマンの出発にさかのぼり検証しようとしないのか。またできなかったのか。

ほんとうに恐いアメリカのジャーナリズムの死 がそこにあるからなのだろう。

この本はアメリカ保守潮流が荒れ狂った1980年代に調査の手を休むことなく続け、8年がかりでまとめたイギリス人ジャーナリストによる事件調査の本格的な仕事であると思う。今は、単行本も文庫本も版元品切れのようだが、ぜひ図書館や古本屋で探して読んで欲しい本。

 

 

▲ 山川健一編  『ジョン・レノンを殺したのは誰か』 八曜社 1990

もしや、レノンの死に関する調査の試みがなされているのではと、タイトルに惹かれ、購入したのだが、レノンの死をめぐる、探究はなかった。日本のミュージシャンたちのレノンと同時代を生きたことの感想はあるのだが、回顧的だった。どうも音楽に回収されない人間表現全体へのレノンの試みに対して、日本の音楽関係者はすこし凡庸な語り。音楽家は音楽で表現しようなんて誰かがいっていたのだが。

日本のロックは見事に産業社会に回収されてしまったのか。?音楽家であり、夫婦であり、それとなく政治家であり、アジテーターであり、哲学者であり、宇宙の声に耳を澄ます瞑想家であり、そのほかあらゆる呼びかけるものに応答しようとしている、絶えず抗争・構想するものであってなんの不思議さもないのではないか。ジョン・レノンの愚直なまでの野生の哲学に私は惹かれ続けている。

 

 

▲ 1995 年 ジャック・ジョーンズ 堤雅久 訳 『ジョン・レノンを殺した男』 リブロポート

6月29日に到着したばかりなのだが、一読した。訳者があとがきで語る通り、「文学だね」 でもわたしは、記録文学にすらなっていないと思った。著者のジャック・ジョーンズは、収監地のアッチカに何度も足を運び、服役中のマーク・チャップマンに数百時間もインタビューしたらしいが、彼が語らされているのか、語っているのか、いっこうにわからない ので、ますます、マインド・コントロールの疑いが出る。周りが、政府御用精神分析学者や御用弁護士に囲まれて、いったい何が解明できるのか。

 

▲ 1995 年 『ジョン・レノン狙撃事件 週刊マーダー・ケースブック 』 10 省心書房

シリーズの監修者にコリン・ウィルソンの名前があり、もうすこしましな特集を組んでいるのかと思っていたが、きちんとした署名記事でなく、政府公式見解の要約の域を出ていない。フェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』では、12月2日にホノルルを飛び立ち、シカゴに数日いたとしているのだが?。 この本では2度目の飛行がいつ出発したのか記載せず、事件の経過の表に12月6日ニューヨークに入るとだけ記されている。実に怪しい。

陰謀説については、最後の半頁にフェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 をすこし引用紹介しているだけ。参考文献表もなく、「書かれた通りに理解せよ、それが、アメリカで安全に生きる道」とでもいいたげな本。

自由な人間であろうとする人間に対する、羨望と嫉妬と攻撃が行間に感じられる。政府公式見解に隠微に従い、依拠した資料の提示もなく、「真実」の文字が表紙を飾る。このようにして歴史は、誰かによって要約され、大衆の一般常識として刷り込まれていく。

 

 

 

  ▲ 2000 年 ジョン・ウィーナー 高橋結花 訳 『ジョン・レノンの真実 FBI監視記録DE-4~HQ-33』 角川書店 定価1500円

出版されたときに、本屋の立ち読みで、墨塗りの伏せ字のある監視記録の複写を見た。ぱらぱらめくって、随分昔から、レノンは、長期にわたり、盗聴・監視されていたのだなという記憶があった。10年以上前の記憶だったが、今手に取ってみて、間違いなかった。原著は1999年に出版されたようだが、日本訳の発行日は2000年の12月8日とあり、レノン没後20年に合わせ発行されたのだ。この本が出た頃、まだパソコンが高価で、仕事の本以外は、ハードディスクなど周辺機器も買い換えるのも一苦労で、趣味の本の購入はしばらくの間封印しなければならなかったのだろう。

ジョン・ウィーナーが、情報公開法に基づき、FBIが所有するジョン・レノンの監視資料ファイルの公表を求め、1981年訴訟となり、クリントン政権時代に最高裁まで至って、和解。300頁が公開されたが、そのうち、200頁が黒インクで塗りつぶされた書類が明らかになっている。

この本のプロローグで、この本の編著者のジョン・ウィーナーは以下のように語っている。

「FBIが公表したジョンの資料ファイルは、ロックが政治を動かす力を持っていた時代の記録とも呼べる。・・・・

FBIにレノン・ファイルが開設されたのは、1971年。・・・・

FBIのレノン・ファイルは、ロックの潜在能力を試そうとした彼の記録である。そしてそんな彼の行く手を阻もうとした政府の足跡の記録でもある。ジョンの監視は権力の濫用そのもの、ロック界の〈ウォータゲート事件〉なのだ。 」

2000 年 ジョン・ウィーナー 高橋結花 訳 『ジョン・レノンの真実 FBI監視記録DE-4~HQ-33』 角川書店 4~5頁

 

 ▲ 墨塗りのFBI監視記録  『ジョン・レノンの真実 FBI監視記録 DE-4~HQ-33 』 角川書店 69頁による

この黒塗りの下の文字には何が書いてあったのか?

黒塗り部分とは 「それが公表された場合、国の安全を脅かす可能性ある」 情報というが、むしろ、それが公表された場合、国の陰謀等が明らかとなり、国民に対する、権力の濫用そのものであるものの隠蔽がばれる可能性が多くあるからなのだろう。ニクソンの統治と、後に明らかになるウォーターゲート事件の中身からして、ベトナム戦争反対者、共和党政権統治に異を唱える価値観をもつリベラリスト、権力監視団体までも監視の対象となっていく。ついには、政権を争う民主党の金庫に眠る政策素案まで、盗み出そうとするまでにいたる。この墨塗りの中身が明らかになれば、「アメリカの民主主義はこんなものだったのか」、とても「自由の輸出は恥ずかしい」となるに違いあるまい。

今後機会を見て、この墨塗りの中身を  「想像してみよう」 

そして国家というものがどうあるべきなのか 「想像してみよう」 ではないか。

 

  

 ▲ 2004 年 アラン・パーカー、フィル・ストロングマン 小山景子訳 『ジョン・レノン暗殺 アメリカの狂気に殺された男』 K&B パブリシャーズ

この本では、アメリカの戦後現代史の重要な人物 JFK(ケネディ大統領)、も、RFK(ロバート・ケネディ)の暗殺も孤独な単独犯に殺されたとされたことにも触れている。アメリカ現代史の中に、ジョン・レノン問題を位置づける。「アメリカの狂気に殺された男」とはどのような意味を意味するのか。オリバー・ストーン監督のアメリカ現代史の試みともリンクしているところもある。

ビートルズも、ジョン・レノンも学校の音楽教科書や、CDで知っているけど、ケネディ大統領も、ロバート・ケネディも、マーチン・ルーサー・キングも、ブラックパンサー党も生まれる前の人たちだという平成時代の若い世代に一番お薦めの本。

 

▲ 2010 年 キース・エリオット・グリンバーグ 刈茅由美 訳 『1980年 12月8日 ジョン・レノンのいちばん長い日』  ブルース・インターアクションズ 1500円+税

これは7月1日に我が家に届いたばかりなので、まだ詳しく読んでいない。レノン没後30年の2010年に刊行。特に事件を追及したものではないが、レノンの生い立ちから死まで、そつなく記述されているようだ。

だが、しかし、やはりなのだが、この本で、マーク・チャップマンは、妻に見送られ、12月6日に空港を飛びたち、ニューヨークに到着したことになっている。やはりフェントン・ブレスラー 『誰がジョン・レノンを殺したか?』 の記述と違う。では、マーク・チャップマンが、ニューヨークのホテルに飾り付けてきた、部屋の中の航空切符の日付は何なのか?

 

 

 



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