いせ九条の会

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「世界がもし100人の村だったら」(2)/山崎孝

2006-09-14 | ご投稿
「世界がもし100人の村だったら」の一冊目で示された状況を改善する為には、憲法前文を「詫び証文」と捉えるのではなく、理想を高く堅持して日本は平和を求め貧困や差別を無くす取り組みを行う国際社会で、名誉ある地位を占めたいとする決意を持ち実践が必要だと思います。

一回目では池田香代子さんが再話した「ネット・ロア」を池田香代子さんの解説で紹介しました。今回はこの本の対訳者C.ダクラス・ラミスさんが、この本の二冊目で述べていることを紹介します。

「世界がもし100人の村だったら」(1)には、次のような文章がありました。「だからあなたは、深ぶかと、歌ってください。のびやかに踊ってください。心をこめて生きてください。たとえあなたが、傷ついても、傷ついたことなどないかのように愛してください」。私はこれを読んでも理解が出来ませんでした。C.ダクラス・ラミスさんの次の文章でおおよそ理解できました。

それなら、なぜ、踊るのか?

『成長の限界』の執筆者たちはその釣り合いの取れた状態という考え方を説明し、まず何よりも食糧生産により多くの努力を注ぐべきだ、という。これは単なる食糧生産高の増加を意味しない。むしろ、(1)すべての人に食糧が行き渡り、飢餓と栄養失調がなくなるように生産を組織し、(2)土壌を枯れさせ汚染したりすることのない農法へ変えていく、ことを意味している(人が餓死しているときにガラクタづくりに精を出すなんて、なんと不合理なことか)。そして、教育や健康管理といった、人を助け、資源を枯渇させず、公害を出さないサービス産業に努力の比重を移すべき、という。さらに、「芸術、音楽、宗教、基礎的科学調査、運動競技、人とのふれ合い」、そして、このような活動ができるような余暇時間についても言及する。

 踊ることはこういった種類の活動の象徴になれる。歌っているときは、消費しないし、何も買わないし、資源を使い果たさないし、汚染しないし、誰も搾取しない。踊っているときは、経済からも、経済的な生活スタイルからも離れている。踊るのに余暇は必要だが、富はいらない。踊ることは、他人が貧乏であることに依存したり地球を壊したりせずに、人びとに喜びと満足を与える数多くの活動のシンボルになれる。

「成長の限界」で要求された「考え方のコペルニクス的転換」とは、金持ち国の人びとが道徳的な理由から自ら進んで貧乏に戻らなくてはならない、という意味ではない。「富」や「貧困」という言葉の概念自身が変革されるべき、という意味だ。踊ることは経済発展が決してもたらせない富の形を代表する。繰り返すが、踊るということは、文字通り音楽に合わせて踊ることだけを意味するのではなく、いろんな種類の自由な自己表現のシンボルなのだ。

「考え方のコペルニクス的転換」には次のような認識も含まれるだろう。まず、主に仕事中毒と消費中毒でできており、その主な満足が「出世すること」、「他人より抜きん出ること」、「新しいものを買うこと」である生活は貧しい。そして、たとえ物質的には質素でも、踊りや歌、音楽、芸術、愛、友情、その他の形の自己表現に注げるたっぷりの余暇と時間がある生活は豊かだ。

6)あなたの村を愛するとは?

『100人村』は、よりたくさんの人びとが自分の村を愛することを知る、という希望で終わっている。もちろん、ここでは「村」とは地球のことであって、特定の国ではないし、国家や政府のことでも決してない。しかし、その一方で、一皮も見たことのないものを愛するのは難しいし、誰もこの惑星のすべての場所を見たことはない。たとえ、いろんな場所に旅したことがあっても、自分が育ったところや住んでいるところを愛するのが一番簡単だ。「お国はどちらですか」という表現があるように、国とはもともと地元や村を意味することを思い出せば、愛国心とは何も悪いことではない。地球を愛するとは、この谷間、この川、この森、この山、この海岸線を愛することから始まる。そのような地球の実在するものへの具体的な愛情がなければ、地球への愛」は抽象概念になってしまう。一度、「愛国心」が政府や国家を愛する(実際は恐れる)不健康で醜い感情から、川や山や海岸といったものを愛することへと再定義されると、愛国心は(今のように)地球を壊すカから地球を保護するために働く力に変わるだろう。山をならし、森を切り倒し、海を埋め立てるブルドーザーを送り込む開発業者は愛国心が欠如していると見られるようになり、反対にこれらのものを守ろうとしている人たちが真の愛国者と見られるようになるだろう。(以下略)

私たちは毎日、テレビのコマーシャルなどマスメディアに掲載される商品宣伝の洪水の中で暮らしています。「仕事中毒」でたくさんお金を稼いだり(課せられたノルマを果たすには仕事中毒にならざるを得ない側面がある)、「消費中毒」に陥らないようにするには、難しいことですが、自分はどのように生きるかという価値観が確立されていないといけないと思います。

一般的にはお金がなくても「消費中毒」にかかりやすいのです。なにしろ消費者金融会社は宣伝を行い、お金を借りる人に団体生命保険を加入させて、消費者金融会社が保険料を払い、借り手の借金が残っていて自殺した場合も、保険金受け取り時に死亡診断書をつけなくてもよいため、消費者金融会社には300万円を上限にお金が入ってくるケースが大手消費者金融会社だけでも3600件あると言います。これがあるために消費者金融会社は取立てを強行して借り手を追い詰める傾向が出てきます。政府はとても高い違法すれすれのグレーゾーンと言われる金利を合法化するような法案を考えています。

「消費中毒」にかからなくても、そのような宣伝に影響されないような、自分なりの価値観をしっかり持たなくてはなりません。「世界がもし100人の村だったら」の3冊目には、中国の賢者老子はいいました。「もう、これで充分だ」と思える人は、ほんとうの富を探し始める、という言葉が紹介されています。

安倍晋三氏は、郷土への愛を発展させて国家への帰属意識を強め、愛国心と結びつけることを考えています。C.ダクラス・ラミスさんと違った発想です。郷土への愛が発展して地球への愛・人類全体への愛に発展させるためにも、政府の政治宣伝に染まらない、真理を見つめようとする自主的精神が大切です。

それでは、自主的精神や自己を確立するにはどのようにすれば良いのでしょうか。それには大原則として現行教育基本法に則った教育をしっかりと行うことではないでしょうか。

改めて教育基本法の前段を紹介します。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

(教育の目的)第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の方針)第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。(以上)

先生方が教育基本法に基づいた教育をしっかり行うために、国家は教育に要する費用を負担するだけで、教育に干渉しないことだと思います。歴史を正視する教科書を「社会主義化」と捉えるような史観で干渉しないことです。

教師に対する管理が強められています。安倍氏は教員免許の更新制度を目指すとも言っています。教師の勤務態度や能力ではなく、国家の教育方針に抵抗を示す教師をふるい落とすことに悪用される危険性は大きいです。また、教師を国家の教育方針に従わす強い圧力となる制度です。

日本が国際社会でしっかりと生きてゆくには、覇権主義の米国に追従する日本政府から距離を置いた自主的精神を持ち、真理と正義を求め、国際人道主義の立場に立つ日本人が必要と思います。