いせ九条の会

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「竹内浩三の詩の魅力」を聴講して/山崎孝

2006-09-20 | ご投稿
今年は竹内浩三生誕85周年を記念した、シリーズの催し物が開かれています。詳しくは「いせ九条の会」のホームページにリンクしている「五月会」のホームページに掲載されています。第1回目も私は聴講したかったのですが、夏休みで幼い孫が二人遊びに来ていて長期間の孫の守に疲れてしまい、開催時間が夜なので聴講を断念しました。しかし、第2回目は参加できました。

第2回目のテーマは、「天性の詩人・竹内浩三を知ろう―詩とおはなし」でした。主催者は「竹内浩三シンポジューム委員会」で、委員長は中村憲一さんでした。この方は、勢田川沿いの町並み保全に取り組み、三重県の観光と文化の情報を発信している「伊勢人」主宰者です。「五月会」会長の森節子さんも「竹内浩三シンポジューム委員会」のお世話をなさっています。

講師は朝日新聞紙上で三重県人の発行する文学雑誌を紹介し講評をなさっている藤田明さんで、藤田さんのお話をはさんで竹内浩三の詩の朗読かありました。朗読は「伊勢青年劇場」に所属している伊藤由美子さんで、この劇団は以前竹内浩三をテーマにした劇を上演していたと私の記憶にあります。

藤田明さんは、竹内浩三の日記や文学作品を紹介した小林察著「日本が見えない」は、竹内浩三の作品を現代に照射したと指摘しました。

竹内浩三の詩で一般によく知られる「骨をうたふ」で詠われた言葉を現代に照射して見れば、「戦死やあわれ」ではなく、日本の戦争を肯定する靖国神社に参拝して、戦死者を尊祟すると考え、政府の政策に忠実な愛国心や「国のため」に再び死ぬことを要求する政治家がいます。その兵士の死ぬ場所は再び「遠い他国でひょんと死ぬるや」の可能性が高いことが予測されます。

伊藤由美子さんが朗読された詩に「ぼくはいくさに征くのだけれど」がありました。(前略)「だれもかれもおとこならみんな征く/ぼくも征くのだけれど 征くのだけど/なんにもできず/蝶をとったり 子供とあそんだり/うっかりしていて戦死するかしら/そんなまぬけなぼくなので/どうか人なみにいくさができますよう/成田山に願かけた」と詠っています。竹内浩三はとても体操が苦手であったと言われています。しかし、戦場での任務は、切込み隊長だったといわれています。まことに不思議な話です。

「だれもかれもおとこならみんな征く」と竹内浩三は詠っています。この背景を考える時、1945年で見ると、陸海軍の兵数は720万人近くになり、第2国民兵役の該当年齢(満17歳以上45歳未満)の男子総数1740万人の4割以上におよんだという事情があります。竹内浩三の出征する時代もこのような状況になっていく過程であったと考えられます。

「ぼくはいくさに征くのだけれど」を読むと、竹内浩三の心は忠君愛国教育からのアウトサイダーであったことがわかります。これは稀有の存在です。「伊勢人」にも文章を書いている伊勢市のフリーライター郡長昭さんは、2003年11月1日付け中日新聞「ふるさと再発見」欄で次のように述べています。《生前の竹内浩三と親しかった女性や、親友の奥さんにも会い、彼のことを尋ねた。「どんな状況の中でも、素直に自己を表現できる一種の天才だった」と口をそろえて言う。》竹内浩三は詩に正直に自分の心を表現しています。世間を気にせずに正直な人間の気持ちが表現できる社会でありたいです。教育基本法が変えられ、憲法までもが変えられたらどうなるのでしょう。

「素直に自己を表現できる一種の天才」といわれた竹内浩三は戦争に行くときの気持ちを表現しています。この詩も朗読されました。「ぼくのねがいは/戦争に行くこと/ぼくのねがいは/戦争をかくこと/戦争をえがくこと/ぼくが見て、ぼくの手で/戦争をかきたい/そのためなら、銃身の重みが、ケイ骨をくだくまで/歩みもしようし、死ぬることさえ、いといはせぬ。/一片の紙とエンピツをあたえ(よ。)/ぼくは、ぼくの手で、/戦争を、ぼくの戦争がかきたい。」

三重県四日市市の出身の田村泰次郎は、中国戦線など7年の軍隊生活をして生還し、占領軍下で生きるために春をひさぐ女性たちの性を描いた小説「肉体の門」で有名になりました。田村泰次郎は「従軍慰安婦」が日本兵に傷つけられる姿を「蝗」で描き、「失われた男」では、戦争から戻った二人を「あらゆる悪業を、共に重ねた共犯者」として描きました。(2005年4月27日付け朝日新聞記事参考)

「戦争を、ぼくの戦争がかきたい」と考えた竹内浩三が、もし生還していたならば、どんな戦争を書いたのでしょうか。

戦死するまで書いた竹内浩三の作品だけでも、その発するメッセージは、現代の日本にとつては生かさなければならないと思います。