いせ九条の会

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郷土を愛するのは、平和な国にするためです/山崎孝

2006-09-11 | ご投稿
中島岳志さんは、安倍晋三者『美しい国へ』を読んで、次のように述べています。

《彼は本書の冒頭で、政治家には「闘う政治家」と「闘わない政治家」の二種類がいるとし、自分は前者の「闘う政治家」であることを強調している。これは、戦う姿を演出することで世論を惹きつけた小泉首相の手法を踏襲しているといえよう。安倍氏は、第1章の中で「民衆の強硬な意見を背景にして有利に交渉をすすめようとするのは、外交ではよくつかわれる手法」と述べているが、国内のナショナリズムが高揚する昨今の世論を受けて、隣国と「闘う政治家」 であることを前面に押し出し、さらなる支持の取り付けを狙うようなことになれば、問題は大きい》と指摘しています。

以前にも私は述べていますが、北朝鮮のミサイル問題で安保理が国際社会の一致した意見を北朝鮮に発することが一番大切と考え、国連憲章第7章を前提としない文章で一致を図ろうとする安保理の議論の流れに逆らい、安倍氏と麻生氏は外務省に「ネジを巻き」日本外交を指導しました。そして考えが一致している新聞の「産経新聞」に、「第7章削除」受け入れについて、「『日本の国家としての意思を問われている。中国の拒否権行使もいとわない』と考える麻生、安倍両氏にとり『制裁』の根拠となる7章の削除は苦渋の決断だった」と報道される結果を招きました。

更に中島岳志さんは、安倍晋三者『美しい国へ』を読んで、次のように述べています。

次に、彼が依拠する「ナショナリズム」や「愛国心」が、本書でどのようなものとして提示されているかを見てみよう。

 彼は愛郷心とナショナリズムの連続性を強調し、「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてはかにはない」と論ずる。さらに、愛郷心が自然の感情の発露である以上、ナショナリズムは「ごく自然の感情」であるとして、「わたしとは誰か」という存在論的問いを、徹頭徹尾、ナショナリズムに回収しょうとする。そこに客観性や論理性はなく、主観的な断言ばかりが日立つ。

 アイデンティティーの問題をすべてナショナリズムに直結させる論理的飛躍は、本書の随所に巧妙に仕組まれている。

 たとえば、第3章に、遠藤周作の小説『沈黙』に感動したことが書かれた箇所がある。ご存じの通り、『沈黙』は「殉教・背教の苦悩」や「神の沈黙」という普遍的問題を江戸期に日本に潜入したポルトガル人司祭を通じて措いた名作である。安倍氏は、この小説から「帰属を決断すること」の重要性を学んだとし、「自らの人生をかけて帰属するのだから、その対象が組織であれ、地域であれ、ひとは、それを壊さないように、愛情をもって守ろうとする」と論じた上で、次のような主張へと帰結させる。

「若者たちが、自分たちが生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国にたいする帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか」

 遠藤周作は、信仰の普遍的側面を強調し、閉鎖的なナショナリズムを超えた真理のあり方を追究し続けた作家だ。『沈黙』は、まさにそのような遠藤の問題意識が結実した作品である。それを、安倍氏は自らのナショナリズムの主張に強引に利用しており、問題が多い。

 同様の手法は、映画「三丁目の夕日」に言及した箇所でも見られる。安倍氏は、主人公の男性が指輪の箱しか買えず、相手の女性に見えない指輪を薬指にはめるシーンを感動的に取り上げ、「お金では買えないもののすばらしさ」を強調する。そして、「ワールド・ベースボール・クラシック」 でのイチローをもち出し、「お金のためではなく、自分の国のために戦うこと」のすばらしさを説く。

 このような、多くの国民の心を揺さぶる作品を利用し、論理的な飛躍を通じてナショナリズムを煽る手法に、我々は今後、注意深くならなければならない。(引用は以上)

しかし、日本人の郷土を愛する心は、政府の政策には反対して闘うこともあります。郷土に在日米軍基地がある人々は、米兵の暴行から住民を守るため、生活環境を破壊する大騒音から生活環境を守るために、軍事基地は他国の攻撃の標的になるため自らの命を守るため、そして、国際人道主義に基き多くの日本人は、国土が他国攻撃の発進基地なり、他国民の殺戮に利用されないために、基地の拡張や基地そのものに反対をして闘います。

イチローは、お金のためではなく、自分の国のために戦ったのであれば、政府の与える国民栄誉賞を何故断ったのでしょう。自分自身の誇りのために、極度のプレッシャーがあったであろうそのプレッシャーを禅の修業僧が求める、無欲・虚心・自律を保って世界的な記録を達成したのだと思います。

中島岳志さんは、インド人のナショナリストを書いた「中村屋のボース」の著者です。引用文は「論座」10月号からです。

中島岳志さんは、安倍氏は「お金のためではなく、自分の国のために戦うこと」のすばらしさを説く、と指摘しています。しかし、私が昨日紹介した【9・11遺族・各国テロ被害者ら、「脱暴力」訴え連携】のように、今日の世界の課題は、国際人道主義を貫徹させることなのです。

アナン国連事務総長は、一貫して国際人道法に基く対処を国連安保理に要請しています。レバノンの状況を念頭において、「われわれの心も頭も、レバノン、イスラエル、パレスチナの文民たちに寄り添っていなければならない」と述べ「われわれを一つに結ぶものは、犠牲者たちとその近親者たちへの共感であることを想起しよう」と述べています。

国際基督教大学教授・最上敏樹さんは「世界」10月号で「いかなる政治的事情に基く武力行使であれ、いちおうは法的根拠があるかも知れない武力行使であれ、そこに一般市民を巻き込んではならないというのが、20世紀国際法の数少ない大成果である。そのように主権国家を超える契機にしか、この世界の武力紛争を減らしていくことが出来そうもないのであれば、それを大切にしていくほかはない」そして「自国民であれ、他国民であれ、人間の権利を侵してはならないという法的要請が国際法体系に組み込まれ始めているからである。その限りにおいて、国際法は沈黙していない」と述べています。

安倍晋三氏の主張する「自分の国のために戦う」のではなく、視野を大きく拡大し、自分の国の行為が自国を守ると称して、他国民を殺戮しないことを防ぐことが、今日の世界に求められていることです。

戦後61年間、日本が直接的な形では「他国民を殺戮しない」であり続けたのは、他国で武力行使をしないとした憲法があったからです。自分の国の行為が自国を守ると称して、他国民を殺戮しない日本の姿も、美しい国の姿の一つだと私は思います。