好奇 高齢者 の呟き

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藪ツバキ、 12月8日開戦日 NO 1

2008-12-08 21:25:47 | Weblog
今期最高の寒さです、 こんな寒さの中で一輪だけ
小さなツバキの木に花が健気に 咲いてくれました。

今日12月8日 1941年 (昭和16年12月8日)
67年前に 山本五十六連合艦隊司令長官ハワイ真珠湾
奇襲攻撃 個人の意見と正反対の決意、(新潟日報の12月8日の
日報抄)から 開戦日の遺書とも言える肉筆 述志(じゆっし)
自分の志を友人に、
『未曾有の大戦にして いろいろ曲折もあるべく名を惜しみ 己
潔くせむの 私ありては 此の大任は成し遂げ得まじ』


『一途邁進の外なき現在の立場誠に変なもの 此れも天命と
いふベきか』

山本五十六の父は 山本帯刀(たてわき)の長岡藩の
戊辰戦争で 河井継之助が銃弾を受けて 戦線離脱したので
その後 受け指揮した大隊長が 24歳の山本帯刀であるが
今 悠久山で河井継之助と並んで眠っている。

24歳で大隊長に山本帯刀は  武田信玄の軍師 山本勘助の
血脈とか、下田から八十里越えでは 鞍掛峠で殿軍(しんがり)
を務めて20日間も務め同盟軍 長岡藩士を 無事に会津に。
会津で散る

山本五十六は 名門 山本家も大正5年 山本家復活、
山本五十六は義理の父 若くして散った会津の地から奥さんの迎えた。

越後毒消し売りの女たち 桑野淳一著(彩流社)より一部抜粋

確か 三根山藩主の菩提寺一山寺 隆崇寺に幕末の家老神戸徳武
山本教子、 山本五十六の叔母の墓碑も

開戦日 5歳でしたから 勿論判りませんでしたが。

 
 

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