一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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近代天皇制における権威と権力 その9

2006-06-08 10:10:39 | Essay
明治維新への過程において、倒幕派に正統性を与えるために利用された天皇(倒幕派に都合の良い「詔勅」を出す、「錦旗」=「官軍の象徴」を与える、などなど)には、明治時代になってからも、「国民統合の象徴」としての側面があった。
それは幕藩体制から近代国家体制に移行するにあたって、「国民」を創出する必要があったからである。

人びとの意識は、明治時代になってすら、幕藩体制における「藩」の意識を脱することができなかった。
福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、
「ただ政府ありて未だ国民あらず」
と喝破する。

「くに」と言えば、それは「藩」のことであり、けっして「国家」のことではなかった(今でも「おくにはどちらですか?」と聞かれた場合に、何と答えるのだろう)。

また、それ以前から、「日本(ひのもと)」とは言っても、その観念は近代国家の「領土」(国家主権の及ぶ範囲)とは異なった構造をもっていた。
「東北北部から北海道にかけての地が『日本(ひのもと)』といわれ、その他の地域の人びともそのように呼んでいたことは明らかといってよい。事実、十六世紀後半の近江商人は、その全国的遍歴の範囲を示すさいに『東は日下(ひのもと)』としていたのであり、『日本国』の東の境は、まさしく『日本』だったのである。これは『日本』が自然現象、太陽の昇る東の方向を指す語であることのおのずからの結果であり、それが一国家の独占物となりえなかったことを、よく物語っている。」(網野善彦『日本論の視座』)

ここに、明治新政府は、「国家」意識と「国民」意識を人びとに持たせるために、いくつかの観念操作を行なわねばならなかった。
明治時代における「国民の創造」である。
「いかに自明なものに見えようと、日本列島を中心とする一定の地域空間が『日本』として境界づけられ、表象されることは決してア・プリオリなものではないはずである。あるいは、ある地域の特定住民が『日本人』として、疎通性にかなりの障害を持つ広範囲な地域の言語群が『日本語』として、ある地域の特殊な習俗・風習・慣習・藝術だけが『日本文化』として表徴されるということも同様に自明視されうるものではないだろう。つまり、『日本』について論じる時には、その『日本』という実体性がどのように獲得されているのかを明らかにしなければならないということだ。言い換えるなら、論じられるべき『日本』という表象の『空間』の境界とその内実が一緒に論じられねばならないということである。」(李孝徳『表象空間の近代』)

参考資料 網野善彦『日本論の視座―列島の社会と国家』(小学館)
     李孝徳『表象空間の近代ー明治「日本」のメディア編制』(新曜社)