一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「君が代」と「日の丸」 その3

2006-06-06 10:45:06 | Essay
島津佐土原藩に下賜された「錦旗」。
宮崎県総合博物館蔵

前回述べたように、「日の丸」は船印として始まり、「御国惣印」としても幕府によって定められたため、戊辰戦争では全国統治の正統性(legitimacy: 特に「合法的支配」) を象徴するものとして、主として旧幕府軍に使われた。

一方、新政府軍独自のものとしては、「官軍」であること(authodoxy、legitimacy: 特に「カリスマ的支配」)を象徴するものとして、「錦旗」(「錦の御旗」とも)が使用された。

その根拠としては、記紀の「神武東征伝説」が挙げられたりするが、しかし、この「錦旗」が実際に使用されたのは、どう遡っても『太平記』の世界でしかない。
ちなみに、細川家に伝わる「錦旗」は、後小松天皇(位1392 - 1428)から細川頼持が拝領したものと伝えられている。また一説には、永和4(1378)年の南朝軍蜂起の際に、後光厳院から細川氏に下賜されたものではないか、ともいわれている。そのデザインは、赤の錦地に日輪と「天照大神」「八幡大菩薩」の文字が金で縫い取られたもの。

けれども、戊辰戦争当時、既に「錦旗」なるものは、人びとの記憶からほとんどなくっていたため、岩倉具視(1825 - 83) の腹心・玉松操(1810 - 72) が、『梅松論』などを参考に図案化したものと言われる。
実際に使用されたのは、その図案を元に、長州藩の品川弥二郎(1843 - 1900) が国元で作らせたもの。

慶応3(1867)年1月4日、鳥羽伏見の戦いで、この「錦旗」が新政府軍に翻った。
一般には、
「錦旗に幕府方は仰天、とたんに戦意を喪失した。錦旗は官軍の目印、するとそれに刃向かう我が方は朝敵、賊軍になってしまうと恐れた」
とされているが、これはまず考えられないこと。

というのは、一般の幕臣に「錦旗」=「官軍の象徴」という認識があったとは思えない。というのも、この際に使用された「錦旗」は、前記のとおり玉松操らの考証によるものであり、それ以前には、このデザインなどはないに等しいものであったからだ(したがって、「錦旗」なるものが、どのようなものであるか、といった知識など普及していない。知らないものに「仰天」し、「戦意を喪失」などできはしない)。
また、『太平記』に関する知識なども、「錦旗」に対抗する幕臣たちに浸透していたとも思えない(また「朝敵」になることを恐れる、という意識も、当時それほどあったとは思えない)。

したがって、鳥羽伏見の戦いにおける「錦旗」なるものの価値を重視することは、明治時代以降に作られた「錦旗」伝説を認めることにもなるのである。

むしろ、「錦旗」が象徴として役立ったのは、新政府軍内部での戦意高揚にではなかったか。当然のことながら、そのために、「錦旗」が「官軍」(天皇の軍隊)の象徴であるという知識を普及させながらであるが。
という意味で言えば、「錦旗」は、日本第1号の軍歌『宮さん宮さん』
  宮さん宮さんお馬の前に
  ヒラヒラするのは何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
と同様の役割であったと言うべきであろう。