田中不二麿(1845 - 1909)
元尾張藩士。明治の教育行政家。
幕末から明治維新期の最優先課題として、西欧最新軍事技術の日本への導入が図られたのだから、軍楽隊という形で、まずは西洋音楽がもたらされたのも当然のことと言えよう。
その後、もう一つの西洋音楽の受入れ口として、音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)が文部省に設置された(明治12年)が、それも軍事とまったく無関係といえないのが、明治という時代の特徴であろう。
初代の音楽取調掛長となったのは、
伊沢修二(1851 - 1917)。
彼は、西欧音楽導入のため、明治初期にアメリカに留学、そこで音楽の教師だった. L. W. メイソン (Luther Whiting Mason. 1818 - 96) を招き、まずは小学校での音楽教育の基礎づくりに当たる。
当初の目標は、『小学唱歌』の完成ではあったが、その根底には、旧来の日本のリズムと音階とを改め、西欧式とすることによって、陸海軍でのそれと整合性を持たせるという意図があった。
同様のことが、体育の分野でも行なわれ、それは明治11(1878) 年に体操伝習所の設立として形を現した。
体操伝習所の設立を計画したのは田中不二麿(1845 - 1909)であり、体操伝習所の初代主幹としてより具体的な構想を描き、それを軌道に乗せたのが、またしても伊沢修二なのである。
体育の分野でも、その根底に、国民皆兵を実施するに当たっての国民の体力増強、集団行動の訓練などがあったのは見やすい道理であろう(江戸時代、駆けること、行進することさえ、一般的な行動習慣にはなかった。そもそも、歩き方自身が西洋式とは異なり、「なんば」といわれる〈右手―右足、左手ー左足〉を組にする歩行法であった)。
音楽・体育を通じての〈身体からの西欧化〉が、明治初期の教育行政家・伊沢修二の最重要課題だったのである。