(1867: 慶応3年 - 1947: 昭和22年)
露伴の家事への関与を見てみようと思います。
それには、娘である文(あや)が、基礎資料を提供してくれています。
作品『あとみよそわか』の有名な一説に、
「掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習つた。掃除ばかりではない、女親から教へられる筈であらうことは大概みんな父から習つている。パーマネントのじやんじやら髪にクリップをかけて整頓することは遂に教へてくれなかつたが、おしろいのつけかたも豆腐の切りかたも障子の張りかたも借金の挨拶も恋の出入りも、みんな父が世話をやいてくれた。」とあります。
けれども、明治時代の男にとって、家事の心得があることは、かえって不幸な生活があったことをも物語っている。
まずは、少年時代、
「父(露伴)は兄弟の多い貧困の中に育つて、朝晩の掃除はいふまでもないこと、米とぎ・洗濯・火焚き、何でもやらされ、いかにして能率を挙げるかを工夫したと云つてゐる。」
「父はちひさい時に米とぎ芋買ひまでさせられて閉口したともいふ」。
また、結婚生活も、けっして幸福なものではなかった。
文の生母である先妻は、病がちでまだ小さな子どもを3人残して死んでいったのです。次に迎えた後添えも、
「私は八歳の時に生母を失つて以後、継母に育ての恩を蒙つている。継母は生母にくらべて学事に優り、家事に劣つてゐたらしい。」ということで、娘への家事教育も露伴がせねばならない。
けれども、露伴は、このような家事が嫌いなわけではありませんでした。実に器用で、かつ、こまめに工夫をこらしたらしい。
彼の器用さを推し量るには、明治~昭和の有名な演奏家であった二人の妹、幸田延・安藤幸を考えていただいてもよいでしょう。
ここでは、
「格物致知はその生涯を通じて云ひ通したところである」(この辺りの生活と思想との関係は、福沢諭吉を連想する)という一節を引くのみにとどめ、詳しいことは、文の作品にあたってもらいましょう。