一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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さまざまな「黒船」感覚 その3

2006-06-21 10:13:23 | Essay
「黒船来航」時の老中首座・阿部正弘(1819 - 57)
(二世五姓田芳柳筆)

為政者はどうかと見ると、前に〈『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』を読む。〉で触れたように、オランダを通じて「黒船来航」が予告されていたこともあり、老中筆頭阿部正弘は、
「自分と意見を同じくする外様大名を江戸に留め置くことにした。久留米藩主有馬慶頼(よしより)、黒田(福岡藩主黒田斉溥(なりひろ))、伊達(宇和島藩主伊達宗城(むねなり))などがその対象であった。(中略)来るべき日に備えて少しでも仲間、というよりは動員できる人員(兵力)を増やしておきたかったのではないかと考えられる。しかし、予告された三月、四月になっても、合衆国艦隊は姿を現わさなかった。」(岩下哲典 『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』)

おそらく、阿部の腹は「黒船来航」を政治的にどのように処理するかで頭が一杯、「危機感」や「好奇心」とは全く別の次元で考えていたことだろう。
というのは、オランダ情報では、アメリカ側は日本に国交ないし通商を求めてくる、というものだったから、その要求を認めるかどうかが、最大の決断であったから(「鎖国」は祖法とされていた)。

もちろん、武力をもって打払うというのは、問題外である。
阿部は、自己責任で国交を認めるか、拒否するかを決断しなければならなかったのである。

であるから、一度国交を認めるとなった時には、かなり余裕ある態度を取ることができた。
「米使あるいは威嚇に類するの所為なきにあるずといえども、もとより本意にあらず、ただ開戦をもって最後の手段としたるがごとき気勢を示したることあるのみ。しかしてわが沿海地方においても、今回(1854年)は前年に比すればやや平穏にして衆人の動揺はなはだしからざりき、けだし政府の処置平和を旨とすること世に知られたるをもってなり」(『阿部正弘事績』)

というのが、再度来日したペリー艦隊への対応である。

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