一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『大観伝』を読む。

2006-06-17 11:30:24 | Book Review
「岡倉天心を師と仰ぎ、師の理想と精神を継承して日本画の近代化に苦闘した横山大観。明治・大正・昭和の三代に亘り侠骨の画人と謳われた巨人・大観の波瀾の生涯を、東京美術学校日本画科卒の経歴を持ちながら、絵を捨て文学に転じた著者が、渾身の力を傾注し書き綴った大観伝」。
というのが、表4(裏表紙)にある出版社サイドの内容紹介。

著者の近藤啓太郎は、1942(昭和17)年の東京美術学校日本画科の卒業。
したがって、日本画の「表現技術」や独自の「美意識」については、一般人は無論、絵画評論家よりは知識があり、実践にも裏付けられている。
そこが、本書での強みともなった。

小生が、特にそのことを感じるのは、日本画と洋画との美意識の違いについて(本書の大きなテーマの1つは、内容紹介にもあったように、日本画の近代化という問題)。
「彼等(横山大観および、その盟友菱田春草)にとって、美とは清潔にして静寂なものでなければならない。せんじつめれば、『雪月花』の情緒である。画面の静寂に惹き入れられ、同化して清澄感にひたれるものでなければならなかった。これに反して、西洋画は画面から人間が躍動的にはみ出して来て、挑戦するようにのしかかって来る。(大観や春草には)僭越であり、下品であって、見るに耐えないのであった。」
「美とは『雪月花』の世界であるという観念は、彼等に限らず日本人にとって抜き難いものであった。彼等が朦朧体で西洋画の手法を採り入れ、空気や光線の変化を求めたのも、一つには情緒の表現に有利だったからである。」

このような美意識を、近代のもの(西洋にも通じるもの)とするために、大観や春草は、苦心するわけである。

春草に関しては置くこととして、大観が意識するようになったのが、「造形的な表現」ということである、と著者は指摘する。
「大観も春草も、帰朝後朦朧体にゆきづまりながら、三、四年の歳月を経て西洋画を省みた場合、その長所も短所も冷静に理解出来たであろう。西洋画から大観は造形ということに気がつき、春草は写実の追及ということを学んだ。(中略)大観のこの主張は『流燈』の場合、まだかなり曖昧な点もあるが、以後の作品において明瞭に確かめられるのである。」

その大観の行きつく先が、お約束どおりの「富士山」の絵(著者は『人生の隣』で「愚劣な富士山」とまで言っている)であったのは、日本の近代化がいかなるものであったかを示しているかのようである。

近藤啓太郎
『大観伝』
講談社文芸文庫
定価:本体1,575円(税込)
ISBN4061983857