一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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さまざまな「黒船」感覚 その1

2006-06-18 11:41:26 | Essay
『ポーハタン檻板上図』
「黒船」艦上のスケッチが残されている。

さる場所で、「黒船」の来航が日本人に与えた「ショック」に関して一文を書いた。
というのは、この「黒船ショック」の内実がどのようなものであったか、を知ることは、その後の近代化なるものの実体を認識することにもつながるからである。

まあ、一般的には武力による「外圧」とか、「砲艦外交」と考えられているようだが、当時の人びとは、本当にそれだけの危機感を感じていたのか。

危機感をまったく無視することはできない。
というのも、佐久間象山や吉田松陰といった人びとは、下手をすると「阿片戦争」と同じようなことが、この国にも起こる、と信じていたから。
「事がここに及ぶことは既にわかっていたことだ。先年から海軍建設や台場構築の意見書をもってやかましく言っていたのに、幕府の連中が聞かないからだ。もはや今は水際の陸上戦闘しか手段がない。」
と言い、その弟子筋の吉田松陰も、
「此方の台場、筒数も甚寡(すくな)く、徒(いたずら)に切歯耳(のみ)。」
と海防体制の不備を嘆いているのである。

しかし、一方では、「黒船」がもたらした実際の機械技術(知識はあったにしろ、実物を見たのは初めて)を「好奇心」という目で見ていた人びともいる。

代表的なのが、浦賀奉行支配組与力の香山栄左衛門と中島三郎助(中島は、後に長崎海軍伝習所に入所、船舶蒸気機関操作の第一人者となった。箱館戦争で、その2子とともに、榎本軍の砲台を守って戦死)。

まずは、ペリー一行に対しては、
「常にある紳士らしい従容さと、教養の高さをしめす打ち解けの態度をたもっていたが、十分に社交的にしようと努めて、自由に愉快に談話を交えたのであった。彼らの知識や常識も高尚な態度や温厚な物腰に比して決して劣らぬものであった。彼らは常に上品であったばかりでなく、その教育も悪くはなかった。」(『ペルリ提督日本遠征記』)
そして、
「近づくことのできるところは隅から隅までくまなく見、あちこちを計測し、そして眼に映ずるものなら何でも彼らの流儀でスケッチした」。(同上)
のである。

それでは、一般庶民はどうであったか。

(この稿つづく)