(『黒船来航絵巻』埼玉県立博物館蔵)
もちろん、富農層には「危機感」を抱いたものがいた。
というのは、当時すでに、その階層には国学も普及し、武士層と教養を共通にしていた者がいたからである。
陸奥国伊達郡の菅野(かんの)八郎の『あめの夜の夢咄し』という文書が残されている。
彼は、第2回目のペリー来航の時(1854年:嘉永7年)神奈川まで出向き、黒船を見ている。
前年の来航に関しては、
「誠に江戸中、上を下たへと周章(アハテル)し、スハヤ軍(いくさ)の起るらん、上下安き心はなかり鳧(けり)」と伝聞を伝え、
「一戦に及之(およぶの)きざし、いわずもそれと顕(あらわ)れたり」としている。
そして、今回の来航について、艦隊の放つ大砲の音に、海沿いの村に住む人びとは外出もできず、
「家の内にひれふして、むしろをつかむ老人、へそをかゝへる児(しょうに)あり、みゝをふさぐ女子(おなご)あり」と書き記す。
しかし、一方には、
「この日(1854年2月22日)、小柴沖に停泊中の艦隊はいっせいにワシントン誕生祭の祝砲を発射した。約一〇〇発の砲声は江戸湾岸を威圧したが、人心の動揺はみられなかった。」(大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』)との説もある。
本当の庶民層はといえば、その「好奇心」には強いものがあって、
「黒船の噂に人々がじっとしているわけがない。この前代未聞の怪物を一目見ようと大挙して繰り出した。」という状態で、幕府は取締を行わざるを得なかった。
「駄賃をはずめば、この種の小舟(野島村や瀬戸村の持ち舟)を利用して黒船見物に出られる。江戸の浜付きの村々からも小舟が繰り出した。その数はもっと多い。」
「ペリー艦隊の来航に見物人がわっと集まった。小船でやってきて艦隊を取囲む者、沿岸から艦隊を見守るかのように集まる者。
あまりにもその数が多い。」(加藤祐三『黒船異変-ペリーの挑戦』)
(この稿つづく)